「ごめん!佐倉!俺と別れてくれ!」
それは、高校入学からまだ間もない5月の出来事だった。
向かい合う格好で座っていた私の彼氏である円谷が、パンッと大きな音を出して手を打ち合わせ、まるで拝むような形で私に頭を下げてきたのだ。
「はあ?何でなのよ?あたし達、まだ付き合い始めたばかりじゃない」
突然すぎる申し出に、呆れたような声しか出なかった。
だって、つい3週間前だった。円谷が私に告白をしてきて、付き合い始めたのは。
それなのに、一体どういうことなのか?
進学校である私の通う海成高校では、GW後のだらけた雰囲気を一喝するかのように、入学以来初のテストが行われる。
そんなテスト前の気合をいれなければいけない平日の学校帰り。
校門をくぐった辺りで円谷から電話があり、彼の通う高校との丁度中間あたり、近辺の高校生が集まるこのカフェにいきなり呼び出されたのだった。
「俺……好きな子が出来た。だからもう佐倉とは付き合えなくなった」
尚も頭を上げない円谷が、一息に言う。
ああ、さては――
私は直感的に悟った。
「あの子でしょう?円谷の好きな子って」
そう、そこそこ中学の時から可愛いともてはやされていた私は、勉強も運動もそれなりに出来るほうだった。
だからこそ、当時は割ともてる方だったはずなのだ。
しかし、どうだろう。
海成高に入学してから、全く男が寄ってこない。
寄ってきたのは、他校の生徒だったこの円谷くらいなもので(もう現時点でそれすらなくなったのだけれど)、多分海成高の全男子(比喩じゃなくて)は皆、とある女に夢中になっていたのだった。
「やっぱり分かっちゃったか。毒田だって」
ようやく顔を上げた円谷が、高校1年生にしては割と整った顔をほころばせる。
そうなのだ。
私達と一緒に今年入学してきたとんでもない美少女の毒田花子は、他校の円谷のところにまで噂されるほどに、絶大な人気を誇っていた。
容姿端麗、性格も良く、男女共に好かれている・・
何処までも可憐で、同性の私でも時折見とれてしまうほどの、とても美しい子であった。
だけど・・
「だからって、私が納得できるとでも思ってるの?それに、確か円谷はあの子と同じ中学だったはずでしょ?何でその時にアプローチしなかったのよ!今頃になって好きだなんて……ずるいよ。あたしの気持ちはどうなるのよ!」
我ながら醜いと思った。
単なる嫉妬だ。
あの絶対的に完璧な彼女に、私なんかが勝てるわけがない。
けれど、女としてプライドというものはあった。
だからそんな言葉を吐き捨てるように円谷にぶつけた時、彼の顔が一瞬微妙に翳ったのを、私は見逃さなかった。
「何?もしかして、何かあるの?理由が」
私は更に問い詰める。
彼はしばし黙っていたが、目の前のコーヒーを一口啜ると、覚悟を決めたかのように言葉を発した。
「今から俺んち、来られる?卒業アルバムを見てもらえばその理由が分かると思う」
意味深な円谷の発言は、不可思議ではあったが、私はテスト勉強のことも忘れて席を立った彼の後を慌てて追いかけた。
「お邪魔します」
勢いで家まで押しかけてしまってから、まがりなりにも円谷は健康な男子高校生だったのだ、という事実に今更ながら気付いて私は内心動揺していた。
しかし、私のそんな気持ちとは裏腹に酷く冷静に円谷は私を部屋の中に招きいれ、適当にその辺に座って、と促すだけだった。
「何処にやったかな?確かこの辺だったような……」
独り言を言いながらなにやらごそごそと卒業アルバムを探しているらしい円谷を尻目に、私は部屋の中をじろじろと遠慮なく眺めていた。
男の部屋の割には、意外と片付いている。
無駄なものがあまりないけれど、CDの数だけはかなりのもので、そういえば円谷は音楽が好きなんだっけ、などと考えていた。
「ほら、あった」
ベッドの上に腰掛け、無遠慮に部屋中を眺めていた私は突然円谷に卒業アルバムを手渡されていきなり現実に引き戻された。
「あ、ありがとう」
早速私はそれを受け取り、教員や学校風景のページを飛ばしてクラスの写真のページに辿りついた。
全部で5クラスだという円谷の中学校の、個人写真はすぐに見つかった。
「円谷、この頃から結構もててたでしょう?」
今も割と整った顔立ちをしている当時の彼の写真は、中学生特有のあどけなさを残しながらも、明らかに他の生徒とは違った大人びた面が垣間見えるようであった。
「ああ……まあ、否定はしないけど。一応、彼女いたしね」
そんな話は初耳だぞ?と思いながらも、さらりと受け流す。
承諾はしていないものの、私は既に振られているのだということを思い出したからだ。
私は何も言わず、最後の5組のページまで見終わってから、さて、そういえば毒田花子の姿が見当たらなかったという事に気付いたのだ。
念のため、もう一度写真を丹念に見て行く。
それでも5組のページまでまたもやたどりついてしまい、私が困惑した表情を浮かべていると、円谷がヒントをくれたのだ。
「俺と同じクラスだよ、彼女」
さて、円谷は確か5組だったはずだ。
慌てて5組のページを開き、今度は名前から探してみることにした。
一つずつ指で辿っていく。
そして、見つけた。『毒田花子』の文字を。
「え?何、これ――」
私はそう言ったきり、絶句した。
だって、これは――あまりにも今の彼女とは似ても似つかない姿だったからだ。
瓶底のような分厚い眼鏡、あり得ない位に癖毛で絡まって綺麗とはとても言いがたい出で立ちをした彼女の姿が、そこにあった。
「それが、中学時代の毒田」
吐き捨てるように円谷が言う。
そして、続けて
「おまけに、俺らの学年で佐倉と同じ海成に行ったのって、この毒田だけ」
と素っ気無く言うのだった。
元々、頭は良かったのかもしれない。
あの出で立ちでは、ガリ勉タイプだった可能性は充分ある。
でも、あの見た目は――あまりにも今と違いすぎるのではないか?
私は憮然とした表情のまま、円谷の家を後にしひたすらに考えていた。
とりあえず、別れる別れないの話は一旦保留にしてある。
それよりも、何より毒田花子のあれは――
もしかして――『整形』したのではないか?
そんな思いが強まって、私は家に帰っても全くテスト勉強に身が入らないのだった。
入学以来初めてのテストだというのに勉強に集中できなかった私は、全くもって散々たる結果で、改めて進学校のレベルの高さを恐ろしく思った。
しかしそんな私をあざ笑うかのように、掲示されたテストの順位表の第一位を華々しく飾るのは、あの毒田花子に他ならないのだった。
何よ、ただの整形美人のくせに。
私は遠巻きに、「凄いね、毒田さん」などともてはやされ、様々な人に囲まれている彼女をうらめしい目で見つめた。
皆がこの事実を知ったら、一体彼女はどうなるのだろう?
日増しにそんな思いが強まっていくのを感じながら。
「凄いよねえ、毒田さん。テストも1番だし、スポーツテストでも凄い結果だったみたいだし、何でもできるのに他人と距離を置いてる感じがまたいいんだよねえ」
昼休み。友達数人とお弁当を広げながら私は、苛立った思いでそんな言葉を聞いていた。
「きっと、中学の頃から完璧だったんだろうね。あそこまで完璧な人、今まで見たことないよ」
しかし、もう一人の友人のその一言がきっかけで、私の口からは驚くべき言葉が飛び出していたのだった。
「それは違うよ。だって、あの子整形したんだもん」
そう、自分でも無意識のうちに。
「え?!嘘!何それ?どういうこと?」
友人達は一様に私に事の真偽を問いただし、そして中学時代の彼女の話をすると、今まで褒め称えてばかりだったのが嘘のように、手のひらを返すかのような態度で言うのだった。
「そうだよね、あんなに完璧な人がいるわけないよ。何だか、凄くガッカリした。ただの整形美人だったなんて」
しばらくすると、いつの間にかクラス中、学年中、学校中にその噂は広まっていた。
私の不用意な発言だけで、ここまで瞬時に噂が広まってしまう。
それだけ毒田花子は注目を集めているのだ。
私は少しだけ怖くなった。
けれど、一人歩きした噂はもう留まるところを知らない。
元々孤高の人物だった毒田花子の周囲には、特に親しい人間という者はいなかった。
ただ、時々朝なんかに、3年生の割と可愛い感じの先輩(名前は知らない)と親しげに会話をしながら校門をくぐっていくのを見るだけで、ほとんどの場合は人と距離を置きつつ、適度な付き合いをしているように思えた。
だから別段噂で彼女が孤立している、という風には見えなかった。
むしろ、「整形だとしても、今があんなに綺麗ならそれでいい」という輩達もいて、事態は終息に向かうように思えた。
そんな時だった。
彼女が、突然あの瓶底の眼鏡を掛けて登校してきたのだ。
彼女はそれについては何も言わず、平然とした態度で一日を過ごし、周囲の憶測などまるで気にするでもないという風だったのだ。
今でこそあの栗色のストレートヘアーをなびかせて背筋をピンと伸ばしている彼女だが、あの眼鏡をかけた姿を見て私は気付いたのだ。
彼女は、やはりあの写真の彼女と同一人物なのだと。
あの分厚すぎる瓶底の眼鏡は彼女の大きな瞳を小さく見せ、整った顔のパーツをも隠してしまっていた。
だからこそ、あの姿では彼女の真の美しさに気付くものはいなかったのだろう・・
私は自分が恥ずかしかった。
こうして、いつだって彼女の事を考えて、嫉妬して、それでも追いつきたい、追いつけないというもどかしさに憤りを覚えながら・・それでも彼女に振り向いて欲しくて仕方がなかったのかもしれなかった。
それはまるで、永遠の片思いのような。
はがゆくて、切なくて、それでも追いかけてしまう・・
私は翌日、何事もなかったかのように眼鏡を外し、いつもの姿で登校してきた彼女を見て、かなわないなあ・・と強く思うのだった。
私は今日、円谷と正式に別れることになるだろう。
彼女が昔、どんな姿であったにしても、今の彼女をあれだけ輝かせているのに違いはない。
私はきっと、彼女に追いつくことも、追い抜くこともできない。
それでも私は、また彼女を見つめてはがゆくなったりするのだろう。
ふっと、毒田花子の大きな瞳が私の瞳とかち合った。
彼女は全てを見透かしたかのように、くすりと笑う。
それは、私を侮辱する笑いではない。
彼女はきっと全てを分かっていたのだろう。
それでも私を、許してくれたのだろう。
こうして、私の彼女との交わらない日々は続いていくのだ。