No-music.No-life

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二人の距離

「ねえ」
 彼女が僕を呼びかける。僕は少し自分よりも背の低い彼女を見る。
「……こういうのって、おかしいと思う」
 彼女は一言そう言って、ゆっくりと僕の手から自分の手を外した。
「誰だって、嫌いではない人から触れられたらドキドキするし、それを恋愛感情と勘違いする人だっていると思う。だけど、それってちょっと、違うと思う」
 僕は何も言えず、俯く彼女の白く細いうなじを見ていた。
――花火が、お腹の底まで響く大きな音を立てて、幾つもの大輪の花を咲かせていた。

「私、変になったかもしれない」
 幼馴染の千穂子がそんな告白を僕にしてきたのは、いつだったか。今から確か三年前の、高校二年の頃だったような気がする。
 県下一の名門校。家が隣同士で、生まれた頃から家族ぐるみの付き合いが続いていた僕達だから、幼稚園・小学校・中学……そして、高校までもが同じ所に通う事になるのは、必然的だったのかもしれない。僕達は頭も良くて、大抵の事を卒なくこなす事が出来た。だけど目立つような存在ではなくて、静かに、ひっそりと過ごしてきた。だから千穂子のその告白は、僕達にとってはあまりにも突拍子もない事件のようなもので、けれども千穂子自身も、その事を受け止め切れていないようでもあった。
「変、って? 何が?」
 驚いた僕は千穂子に問いかける。五月の風が、心地良く吹き込む僕の部屋で、やけに険しい表情をした千穂子がゆっくりと口を開いた。
「私……女の人を好きになってしまったかもしれない。もしかしたら私、女の人にしか恋愛感情を抱けない人間なのかもしれない……」
 呟くように、そして早口に千穂子はそう言って、ふいに押し黙った。
「え? でも……千穂子は、今まで好きになった相手は全員男だっただろ? なのにいきなり、それはないだろ。好きになった人が、たまたま女の人だったってだけなんじゃないの?」
 僕がそう言うと、千穂子が突然僕の肩を掴んで揺さぶった。
「そうだよね? きっと、そうだよね? 私がおかしくなった訳じゃ、ないよね?」
 ぐらぐらと揺すられる体が不安定で、一瞬僕は間違った事を言ってしまったのではないか、と思った。けれどもそれはただの思い込みで、そんな事はないのだと自分に言い聞かせた。だけど――その事が、僕を彼女の恋愛を見守り応援する、という立場に追い込む一言になるとは、想像もしてはいなかったのだ。

 千穂子が好きになってしまったという相手は――県下一の名門校、この海成高校に於いて、知らない人などいないという位に有名な人だった。
「毒田先輩、大学決まったみたいだよ。やっぱり凄いね」
 毒田先輩――毒田花子というその人は、驚く程完璧な人間だった。整った目鼻立ち、ピンと伸びた背筋、長い手足、栗色のストレートヘアー、そしてこの名門校でも突出した頭の良さで、難関と呼ばれるあの大学に、いともあっさりと合格してしまったという。
「でも、受けるんでしょ? 千穂子も」
 一学年上の毒田先輩は、来年には高校を卒業してしまう。好きな人を追いかけて、同じ大学に進学する――それは、至って普通の恋愛のパターンだと思う。例え相手が同性であったとしても。それに、決して自分に振り向いてくれない相手であったとしても。

 ――という訳で、必然的に僕たちは毒田先輩と同じ大学を受ける事になり、そして無事に合格し、同じ大学に通える事になったのだった。
 千穂子は、先輩を好きになってしまったと言っても、同じサークルに入る訳でもなく、まして先輩とは全く接点がない状態のままだった。昔から、千穂子は好きな相手に積極的にアプローチが出来る人間ではなく、ただ見つめているだけで満足してしまうような所があった。
 それは、幼馴染という立場であり、千穂子の良き相談相手である僕の恋愛傾向と全く同じものがあるのだろう。僕にとって、千穂子が幸せになる事が自分の幸せでもあり、ただ傍で見守っているだけで充分に満足だったのだ。
 だけど――
 あれだけ突出した完璧な毒田先輩に、今まで浮いた話一つもなかった方がおかしかったのかもしれない。僕達は二年生になり、丁度その頃……毒田先輩に彼氏が出来たという話を耳にする事になったのだ。
 その話を聞いた時も、千穂子は驚く程落ち着いていた。
「……そっか。そうだよね。今まで、付き合っている人がいなかったっていう事が、おかしかった位だもんね」
 寂しげに笑ったその顔は、失恋した時の女の子、という表情そのままだった。そんな表情を見ている事しか出来ない僕の胸も、チクリと痛んだ。


 幾つもの大輪の花が、夜空を明るく染めていく。次々と打ちあがる花火。お腹の底にまで響く打ち上げ花火の音。どよめく観客。混雑したこの場所に、ただ二人並んでその花火を観ているだけなのに、僕達の間にはどうしようもない距離があった。
「花火大会、行かない? 久しぶりに浴衣着て行こうかなって思ってるんだけど」
 毒田先輩への恋心を伝える事も出来ず、叶う事もなかったその想いを、千穂子はただただもてあましていたのかもしれない。一緒に行ったのは、多分小学校の頃、お互いの家族と一緒に行った事が最後だったと思う、その花火大会に突然行こうと誘ってきたのは、千穂子だった。

 花火大会に一緒に行こうと約束した時から決めていた。僕は、千穂子のように想いを打ち明けずに終わりたくはなかった。そろそろ、僕は動き出さなくてはならない。

 沢山の見物客で混み合う中だから、手を繋ぐ事なんてきっと簡単だと思っていた。だけどそれを見透かしたかのように、隣に立つ千穂子の両手は、巾着袋を固く握り締めている。それは、僕の思惑を頑なに拒んでいるようでもあった。
「……お腹、すいたね。何か食べようか」
 僕は何かきっかけを作ろうと、花火を見ていたその場から離れる事を提案した。移動する瞬間、強引にでも手を取る事が出来るのではないか? そう思っていた。
「うん。チョコバナナが食べたいな」
 千穂子は僕の方に目をやると、まるで僕の考えを分かっているのではないかと思う程自然な動作でするりと人混みをすり抜けて先に行ってしまった。その時ですら、僕が手を握る隙を与えてはくれない。
 慌てて千穂子を追いかけると、千穂子は既にチョコバナナを待つ人々の列に溶け込んでいた。履きなれない下駄を履いた浴衣姿であることがまるで嘘のように、素早い動きだった。

 チョコバナナを一本だけ買った千穂子は、片手にチョコバナナを持ったまま、必死に巾着袋の中に小銭を入れようとしていた。
「持つよ」
 少々強引にチョコバナナを奪い取り、千穂子が巾着に小銭を入れたその瞬間――素早く、右手を握った。冷んやりとしたその手は、一瞬だけ躊躇い、しかしそれを拒む事はなかった。まるで付き合いたてのカップルのように、僕達は手を絡める事もなく、ただお互いの掌を合わせるように手を重ねた。
「チョコバナナ、少し食べていいよ」
 僕達は繋がれた手を、自然に受け止めるように会話を続けた。
「良かった。一本しか買ってないから自分の分はないのかと思った」
「まあ、本当は一人で全部食べたいけど」
「……何だよ、それ」
 僕達は手を繋いだまま、再び花火を観る為に歩き出していた。しかしふいに、千穂子が「ねえ」と言った。
「……こういうのって、おかしいと思う」
 ゆっくりと、千穂子は僕の手から自分の手を離した。
「誰だって、嫌いではない人から触れられたらドキドキするし、それを恋愛感情と勘違いする人だっていると思う。だけど、それってちょっと、違うと思う」
 俯いた千穂子の、白く細いうなじを見つめる。いつもはおろしている少し癖のあるセミロングの髪を、今日は一まとめにくくってあった。生まれた時から、もうずっと一緒にいたはずの僕は、何故か今日の千穂子がまるで見知らぬ他人のように思えてしまった。どうしてなんだろう。
「私達は、だって幼馴染でしょう? 恋愛を挟んだら、もしかしたら、この関係が壊れてしまうかもしれない。それは、悲しいよ。だから、私は絶対に好きにならない」
 千穂子が顔を上げて、僕を見る。真剣な表情を浮かべたその顔は――どうしたって僕の好きな人の顔に違いなかった。
「……見てるだけで良いなんて、ただの自己満だったのかもしれないね」
 何も言えない僕を気にする事なく、千穂子は言った。
「だって、私もあんな風に好きな人と並んで歩いてみたかったもん。手を繋いでみたかったもん」
 千穂子の目線は、僕ではない別の誰かを捕らえていた――浴衣姿の毒田先輩と、並んで歩く彼氏の姿を。
 千穂子は涙声を隠す事もなく、ただじっとその光景を見ていた。僕は言う。
「俺だって、好きな人と、千穂子と手を繋いだり、恋人みたいに並んで歩いたりしてみたかったよ。だから……今日、少しでもその夢が叶って、本当は凄く嬉しかったんだよ。だから――」
 僕は千穂子の手を取った。冷んやりとしたその手は、一瞬の間躊躇った後、強く僕の手を握り返してきた。
「今日だけは……今日だけは、勘弁して」
 千穂子は何も言わず、ゆっくりと瞼を閉じる。僕は、今にも泣き出してしまいそうな顔を見られたくなくて、頭上に咲く大輪の花火を仰ぎ見た――