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スタート・ライン⑤ 最終章

(エピローグ)
 何気なくつけていたFMラジオから流れるその曲には、聞き覚えがあった。中学時代の後輩だった牧田達のバンドは、デビュー十周年を迎えた今でも第一線で活躍を続けていた。彼らと同じような沢山のバンドがデビューしては、いつの間にか消えていく中で、彼らのバンドはそのどれにも属さない彼らだけのジャンルを確立し、今でも多くのファンに愛されていた。
 その曲は、デビューしてから初めての試みという、彼らがリスペクトするミュージシャンの曲をカバーし、音源としてリリースされたという一曲だった。
 歌が終わり、楽器の演奏だけになると、曲の音量が落とされてDJの声がかぶさる。
『この曲は、彼らがバンドを結成して間もない頃に対バンをしていた――というバンドの曲なのだそうです。先日この番組の中でこの曲をオンエアした所、オリジナル曲を歌う――について、問い合わせが殺到しました』
 小さく、ギターの音が鳴り響いている。和歌子はラジオに目を向けたまま、DJの言葉の続きを聞いていた。
『残念ながらそのバンドは既に解散し、またこの曲も正式な音源として発表されていたわけではないようなので、今ではインターネットの動画サイトでその音源を聴く事しか出来ないとの事なのですが……』
 和歌子は強く目を閉じる。春風が、ふわふわと白いカーテンを揺らしている。
『なんと、来月バンドを再結成しこの曲をもってメジャーデビューする事が決まったそうです。その音源が入り次第、番組でもオンエアさせていただこうと思っています。皆様楽しみにお待ちくださいね』
 和歌子はゆっくりと閉じていた目を開け、床の上に置いた読みかけの音楽雑誌に目を向ける。そして何気なくその記事の文章を目で追った。
『牧田:僕達にとって、この曲は、彼らとの出会いの曲です。当時はまだお客さんの数も全然少なくて。だから対バンをした彼らの演奏を初めて見た時、鳥肌が立ったのを覚えています。カバーさせてもらうにあたって、久しぶりにボーカルの佐藤さんと連絡を取ったんですけど、彼らのラストライブ(再結成後にメジャーデビューが決まっているが、五年前に一度解散している)の日が丁度あのライブの日で。観に行けなかったんですよ。それを未だに覚えてて、文句を言われました(笑)』
 和歌子は唇をきつく噛み締め、雑誌を閉じた。するとタイミングよく「ママ、ただいまー」という幼い女の子の声と共にバタバタという足音が響いた。
 和歌子は立ち上がり、玄関へと向かう。そして「お帰りなさい」といいながらその場に屈み、その女の子――四歳になる和歌子の娘である真奈美を抱きしめる。
「ねえママ、今日もウタちゃんとオンちゃんのお話聞かせてくれる?」
 真奈美が無邪気に尋ねる。和歌子は一瞬目を細め、そしてにっこりと微笑んで娘の目線に立って「いいわよ」と言った。ここ2,3日の間、絵本を読み聞かせるように聞かせていた一つの物語。どうやら真奈美はその話を気に入ったらしい。毎日少しずつ話をして聞かせ、今日で丁度その話は終わるはずだった。

「……そしてウタちゃんとオンちゃんは、五年後にもしお互いが結婚をしていなかったら、結婚しようと約束をしてお別れしました」
 絵本を読み聞かせるようにゆったりとした声で、和歌子が言う。すると、それを聞いた真奈美が、無邪気に問いかける。
「このお話は、ママとパパのお話なんでしょう? ママはウタちゃん? それともオンちゃん?」
 興味津々といった表情で、キラキラとした目を輝かせて真奈美は和歌子を見ている。和歌子はにっこりと微笑み、少しだけヒントを出した。
「ママの和歌子っていうお名前には、漢字で歌っていう字が入っているの。だから、ウタちゃんはママのことだよ」
「じゃあ、オンちゃんはパパの事だね! でも変なの。ママもパパも、オンちゃんだよ? だけどママはウタちゃんなの?」
 え?――と一瞬だけはっとした顔をして、和歌子は戸惑う。そしてすぐにその意味を悟った。
「……ママはね、結婚をしてパパと同じ名前になったんだよ。だからその頃、ママの苗字は違っていたの」
「ふうん」
 真奈美は納得したような、そうでないような表情を浮かべている。


ただいま、という声がして男が玄関のドアを開ける。
「お帰りなさい。今日は早かったんだね」
 和歌子は微笑み、男を見上げ――夫の手にしていた鞄を受け取った。今日はノー残業デーだったからね、と言った夫がリビングに向かう。
「お、真奈美、ピアノの練習か?」
 真奈美は先日から、幼児のピアノ教室に通い始めている。そして買ってもらったばかりのピアノ――まだまだ体が小さいので、腰掛けた椅子の下、足がぶらぶらと揺れていて足が届かないようだ。夫は真奈美に近付き、立て掛けられた譜面に目を向ける。
「何の曲をやってるんだ? パパは楽譜が読めないからなあ」
「ええとねえ、キラキラ星!」
 真奈美は一瞬不思議そうな顔をした後、だけどすぐに忘れたように得意気にそう答えると、小さな手を鍵盤に載せて弾き始める。まだまだ拙い指先でキラキラ星のメロディを奏でている真奈美を見て、相好を崩した夫を和歌子はそっと見つめている。
 リビングのテーブルの上には、ピアノ教室で配布された子ども向けの教則本が無造作に置かれている。その表紙には、和歌子が書いてあげた名前が書かれている。

 ――久遠 真奈美――クオン マナミ

 私と夫が「オンちゃん」だというのなら、真奈美だって「オンちゃん」になる。だけどそうじゃない。自分自身で作詞も作曲もしていた「オンちゃん」に、楽譜が読めないわけはない。
いつか真奈美が大きくなって、漢字が読めるようになったら――その時にもし、今日話して聞かせた物語を覚えていたとしたら――「オンちゃん」という名前の由来を教えてあげようと和歌子は思う。
 そして、五年という歳月の間にあった様々な出来事を思い出す。未来なんて、どうなるか分からない。和歌子にとって、あの日が一つのゴールなのだと思っていた。だけど「オンちゃん」にとっては――あの日こそが始まりの日だったのだ。
 ゴール地点を踏んだ和歌子と、スタートラインに立った「オンちゃん」は、その一瞬だけを共にした。だけどそれから先は――別々の道になっている事も知らずに。

 無邪気に将来を約束出来たあの頃の自分はもういない――和歌子は思う。あの日、五年後の自分が結婚をし、子どもを生み育てているかもしれないと言った言葉は真実となる。人生なんて、意外とそんなものなのだ。
 夫と娘の、幸せそうな笑顔がチクリと胸に突き刺さったような気がして、和歌子は強く目を閉じる。
 歌ちゃんと呼んでくれた人は――もう傍にいない。