No-music.No-life

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スタート・ライン③-1の2

「和歌子ぉー! 久しぶりー!」
 翌日の夕方。クラス会の会場となっていた居酒屋に行くと、すぐに私の存在に気付いたらしい幹事の女の子が、嬌声をあげた。ああ確か、この子は……
「美弥子! 久しぶり。ごめんね、ずっと参加できなくて。元気だった?」
 私は無難な挨拶を返して、美弥子を見る。当時はクラスで一番に可愛かった女の子。今はあの頃より大分ぽっちゃりしたみたいだ。だけどこれはこれで、愛嬌があって可愛い。
「うんうん。元気だよー。あたし太ったでしょう? まあ、今妊娠中だからっていうのもあるんだけど。結婚してから太っちゃって……」
 美弥子はそう言って、ふふふと笑う。口元に添えた左の薬指に、キラリと光る結婚指輪。幸せそうなその笑みが、私の胸をチクリと刺した。
「それって幸せ太りでしょう? うらやましいやつめ!」
 私は笑って言葉を返しながら、周囲の様子を伺う。高校を卒業して、約十年。髪の毛が薄くなって将来がちょっと心配なあの彼は確か宮脇君で、驚く程垢抜けたのは、地味で目立たない存在だったはずの、高坂さん。あそこに座っているのは確か塙さんで――誰を見ても、確かに年齢を重ねているのに、不思議と面影があるから不思議だ。懐かしい。私は、皆から一体どう思われているんだろう? 全然変わってないって思われているかな? それとも、変わったって思われているのかな?
 ふと、座席の奥に座っている男と目があった。私は、「あ」と思わず声をあげてしまった。黒いセルフレームの眼鏡をかけた、嫌味のない清潔感のある割に整った顔。あの頃の面影が少しだけ残っている。だけどしっかりと、記憶にあるものよりも年齢を重ねたその顔。
ほんの気まぐれでクラス会に参加してしまった事を、これほど後悔した事はない。しかも、昨日の今日だ。同じクラスに、あの芳信がいたのだという事を、どうして忘れていたんだろう。
 そのまましばらく、私達は目線を合わせたまま固まっていた。私はいますぐにこの場から逃げ出したい気持ちになり、さっき座ったばかりの席から立ち上がりかけた。だけど、私達の様子を目ざとく見つけた美弥子が、何の嫌がらせのつもりか(本人にそんな気持ちはないのだろうけど)私達を引き合わせてしまった。
「ちょっとちょっと、何二人して見つめあってるのよー。お互い久しぶりだから、見惚れちゃった? ちょっと芳信君、そんな所にいないでこっちに来なさいよ。和歌子の隣、空いてるんだから」
 既にビールのジョッキを開けていたらしい芳信が、ジョッキとおしぼりを手にしながら渋々といった足取りでこっちにやってくる。本当に嫌だったら、何か上手い理由をつけて断る事だって出来たはずだ。だけど恐らく嫌じゃないからこっちに来る。それをわざと嫌々という素振りをして見せているのが私には不快だった。
「……久しぶり。和歌」
 ワカ――ああ、そういえばこの男は私をそんな風に呼んでいたのだった。だけど、今は何の感慨も湧かない。昔付き合っていた男の存在なんて、所詮女にとってはそんなものだ。
「……久しぶり」
 瞬時に私達の間に気まずい雰囲気が漂う。それをとりなすように、美弥子が言った。
「でも、芳信君もかなり久しぶりじゃない? 最近のクラス会は全然参加してなかったのに。やっぱり和歌子が来るって言うのを聞いて、来たとか?」
 美弥子は多分、冗談交じりに言ったのだろう。だから芳信があまりにもさりげなく「ああ」と肯定の返事をした事に驚いたらしい。口をぽかんと開けたまま、美弥子は芳信をしばらく見ていた。
「あ、そう……なんだ。でも和歌子には驚いたなー。久しぶりに見たけど、やっぱり若いね。東京で働いてると、皆そうなるのかな?」
 美弥子は芳信からようやく目を逸らし、私に振ってくる。だけどその質問も、どう返したらいいのか迷う。東京に出たというのが理由じゃなくて、多分未だに独身だから。だからそれなりに自分自身にお金を使えるし、周りの目だって気にしなくちゃいけない。美弥子みたいに、結婚をして子供が出来て、そんな立場に自分がなっていたとしたら、多分今の私はこうじゃなかった。
「……でも、驚いたよ。和歌、綺麗になったな」
 私が言葉を返せずにいると、芳信がそんな事を言うから更に私は何も言えなくなった。否定する事も肯定する事も、何故かわざとらしく思えて私はそのまま何も言わずに芳信を軽く睨み付けた。その視線を受け止めた芳信は、更に挑発的に言った。
「やっぱり、今付き合ってる男の影響なのかな。バンドやってるんだって? 今の彼氏」
 お母さんか! ――芳信が今の私の近況を知る術は、もうそこからしかないだろう。きっとお見合い云々の話になった時、ベラベラと私の話をしたに違いない。それにしても、元彼に今の彼氏の事をどうこう言われたくもない。私はその挑発を受け止め、反発しようとした。するとその時だった――
「和歌子ちゃんの彼氏ってー、もしかして牧田君? 和歌子ちゃんってぇー、中学の時、あの牧田君と仲良かったんでしょー? 確か同じ中学だったんだよねぇー?」
 語尾をわざとらしく伸ばした気に障る喋り方。突然、私達の間に入ってきたのは――あの頃から苦手だった、ギャル系グループのリーダー格の斉藤さんだった。吸っていた煙草を灰皿で揉み消して、相変わらず派手な化粧とキツイ香水の匂いを漂わせている。やっぱり私は、この子が苦手だ。それに、あの頃は絶対に私の事を名前でなんて呼ばなかったのに、わざとらしい。
 今となってはもう、ほとんどの人が知っている牧田君のバンド。しかもここは、牧田君の地元だ。多分全国的に見ても、ここに住む人々の牧田君の知名度は相当なものだろう。斉藤さんがそんな事を言ったものだから、今まで各々で会話をしていた元クラスメイト達が途端に私を見た。興味津々、と言った表情で。
「……違う違う。確かに仲は良かったし、彼らのバンドとは時々対バンとかしてたけど、全然別のバンドをやってる人だよ」
 内心のうんざりとした気持ちを隠すように、無理に笑顔を浮かべて私は言った。するとその瞬間――さあっと潮が引くように、皆が興味を失ったのが分かった。私を見ていた皆の視線は、既にもう私にはなかった。
「そうなんだあ。あはっ。大変だねえ、バンドマンの彼女って。絶対苦労しそぉー」
 大袈裟な程、斉藤さんが笑い声をあげた。あからさまな嘲笑だった。私は反論する気も失せて、唇をきつく噛み締める。
 ――どうして。どうしてこんな風に私達の事を言われなくちゃならないの? 私は音ちゃんといて、苦労したなんて思った事はないし、一緒にいたいからずっとこうして付き合ってきた。ライブのチケットのノルマが達成できなくて、ほとんど自腹になって音ちゃんが金欠になった時も、二人して協力して節約に励んだ。あまりお金のかからない公園デートで、私は十分満足だった。確かに普通の、歳相応な付き合いは出来なかったかもしれない。だけど、私はそれを不満に思った事なんてなかった――だけど、だけど。
 どうして私は、反論する事が出来ないんだろう。音ちゃんの事を、話す事が出来ないんだろう――

 適当な理由を並べ立てて、あの場から逃げ出した私は、帰り道を急いでいた。出来ることなら、走って帰りたい。だけどそれじゃあ、逃げ出したみたいに思われる。それだけは嫌だった。
「和歌!」
 誰かが、いや、もう一人しかいない。芳信が私を呼び止める。私は仕方なく足を止め、ゆっくりと振り返る。
 追いかけてきてくれた事を、素直に喜ぶべきなんだろうか。だけど、私はもうあんたの彼女なんかじゃないんだ。どうして私にそうやって構おうとするんだろう。元々、さっきの原因を作ったのはあんたなのに。
「……ごめん。なんか、俺が余計な事を言ったせいで。気まずくさせたみたいで」
「ああ、いいよ別に。気にしてないから」
 私は素っ気無く言い放つ。どんなに鈍感な人間でも、こんな風に言われたらそれが嘘であろうことはすぐに察しがつくだろう。芳信はもう一度ごめんと言い、私を送っていくと言った。ここから私の家は、徒歩で五分程だ。別に送って行ってもらう程の距離ではなかったけど、断るのも面倒くさい。私は無言で頷き、芳信が私の隣を歩く。音ちゃんが隣に並んだ時、目線はほとんど変わらない。だけど芳信の身長は私より頭一つ分高いから、私はいちいち芳信と会話を交わす度に見上げなくてはいけない事が苦痛だった。だから敢えて、私は芳信の顔を見ないように、ただ真っ直ぐに前を見て歩いた。
「今日さ、和歌が来るって聞いて……まだ和歌の事引きずってるとかそういう訳じゃ全然ないんだけど、久しぶりに顔が見たいなって思ったんだ。親がなんか、勝手にお見合いとか騒いでて色々話聞いてるかもしれないけど、あれは俺のお袋が勝手に言ってるだけだから。和歌には今、付き合ってる奴がいるって聞いてるし、もうずっと付き合ってるんだろ? なら俺がどうこう言える立場じゃないしさ」
「……何か、物凄く言い訳くさく聞こえるけど。どうせ私の話も色々聞いてるんでしょ? だけど、芳信には何の関係もない話だよ。だって私達は、もうとっくの昔に別れてるんだから」
 自分でもどうしてここまでと思う程、棘のある言い方になった。そうだ、私は今――物凄く苛立っている。
「そっか、そうだよな……ごめん」
 芳信はそれきり押し黙る。そうこうしているうちにすぐに私の家の目の前に辿り着いて、私は「それじゃ」と家の中に入ろうとした。
「あ! ちょっと待って」
 芳信が私を呼び止める。振り向くと、芳信は財布の中から何かのレシートを取り出して、その裏にペンで走り書きをしている。
「これ。気が向いたらでいいけど。またこっちに帰ってきたら、飲みにでも誘ってよ」
 一方的に私の手の中にそれを押し付けると、芳信は元来た道を小走りで引き返していった。今からまた、クラス会に戻るのだろう。受け取ったレシートを見ると、芳信の携帯電話の番号とアドレスが殴り書きされていた。こんなものを渡して、今更どうしようというのだろう。妙に冷めた頭でそんな事を考える。
「ただいま」
 玄関のドアを開ける。すぐに出てきてしまったから、まだ八時にもなっていない。その割には、静かだ。いつもだったら、すぐにお母さんが出てきて私を迎えてくれるのに。
 リビングのドアを開ける。そして私は見た。
「……お母さん?」
 母が、リビングに仰向けに倒れていた。お茶をテーブルに運ぼうとしていたのだろうか。お盆をひっくり返し、落下した湯飲みが派手に割れていた。散らばった湯飲みの破片。こぼれたお茶。その全てが、現実ではないようだった。
「お母さん! ねえ、お母さん!」
 私は母に駆け寄り、揺り動かす。だけど、反応がない。顔色が異様な程に青ざめている。これは現実なのか? それとも、趣味の悪い冗談? こんな時に限って父は泊りがけのゴルフコンペに出かけている。こういう場合、どうすればいいんだっけ? 救急車は何番だった? 
 私は混乱し、目線をさ迷わせる。音ちゃん――どうしよう。お母さんが、お母さんが倒れてる。ねえ、どうしたらいいんだっけ? だけど音ちゃんは近くにいない。すぐに来てくれる誰か。駆けつけて来て、傍にいてくれる誰かが必要だった。私は混乱した頭で考える。そして――右手に握られていたレシートに書かれた携帯電話の番号に目を留めた。
今頼れる人間は――悔しいけれどこの番号の相手しかいなかった。