No-music.No-life

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スタート・ライン④-1

(7)
 音ちゃんと別れて、地元に戻ってから数週間が過ぎた。
最後の最後まで、私達は気まずく目を逸らし、お互いにわだかまりを残したまま別れてしまった。もう音ちゃんから連絡が来る事はないし、私からも連絡する事は出来ない。
 言わないで後悔するよりは言って後悔した方が良い、というような事をよく聞くけれど、実際はどっちの後悔の方がましなんだろう。私は自分の正直な気持ちをぶつけて音ちゃんに伝えたつもりだけど、何かを言った所で変わりようのなかったこの関係を、綺麗にすんなりと終わらせるためには一体どうしたら良かったのだろう。そう考えては明確な答えが未だに導き出せずにいた。どうせ別れる事が決まっていたのなら――ならばせめて、お互いに笑ってさよならしたかった。今はただ、強くそう思う。

 都内での転職を諦めて、地元での転職を決めた時――通勤距離の足かせがなくなったと同時に、すんなりと内定をもらえた事に私は拍子抜けしてしまった。なんてことない事務経験を積んできただけの人間には、採用側から見ても何の魅力も感じないのだろうと思っては落ち込み、だけど落ち込んでばかりはいられなくて、私はがむしゃらに会社の面接に挑みまくった。その全てに落ちて、いよいよ自信も失いかけていたその時、呆気なく決まった採用は私の中で、何かを確実に失わせた。大学卒業後、何となく入社した会社で七年間働いてきた。だけどその経験やキャリアは何の関係もなくて、単に家が近いというだけで採用が決まる。実際はそんな理由ではなかったとしても、私には単純にそう思えてならなかった。
 採用が決まったと同時に会社を辞める旨を伝え、少ないながらもいくつか任されていた仕事の引き継ぎを終えた後、今はたまっていた有給休暇を消化して過ごしている。娯楽が少ないこの田舎で、まして七年ぶりに帰ってきた私の周りには一緒に遊んでくれる友人がいない。だから私は、そんな時に芳信を誘ってしまう。別に下心があるわけではないし、芳信には「見返りを求めているんだったら、私はもう会わないから」と強く釘を刺してある。だけど、それでも会おうとする芳信は、恐らくこの奇妙な関係に納得して付き合ってくれているのだろうと、私は勝手に思っていた。
 そんな芳信が、この前私にくれた一枚のチケット。
「和歌、最近元気がなかったからさ。お袋がまあ主婦会では力があるらしいからさ、地元期待の星のバンドのチケットをもらえたらしいんだよね。久しぶりに東京に行けば、ちょっとは気が紛れるんじゃないかって思って。それに、会社の事務手続きもあるんだろ? 俺もその日、有給取るつもりだし、一緒に行かない?」
 それは――マッキー達のバンドのライブチケットだった。彼らの集大成とも言える、あの大きな舞台でのライブだ。七年前、私が音ちゃんと約束をしたあの公園の、すぐ傍にあるあの舞台。そこに立つのは音ちゃんではなくて、音ちゃんと一緒に小さいライブハウスで歌を歌っていたマッキー達のバンドなのだ。その現実に、私は少しだけ苦笑する。
「このチケット、一般発売の開始早々に売り切れたらしいよ。私も実は頑張ったんだけど、取れなかったんだ。……ありがとう」
 私は素直に礼を言う。芳信は照れくさそうに歯を見せて笑う。後に芳信が、このチケットを入手するために相当頑張ってくれていたらしいと聞くのだけど、それは大分後の話だ。

 音ちゃんから手紙が届いたのは、芳信にチケットをもらってから数日後の事だった。
 自宅のポストを開けると、そこには素っ気無い茶封筒が入っていた。私の住所と名前、裏面には名前が――日本で三本の指に入るくらいにポピュラーな苗字だ――書かれていた。だけどそれだけで、誰からの手紙なのかを私はすぐに悟った。男の子の割に、丸っこくて可愛らしい文字。ルーズリーフに書き散らしていた、沢山の歌詞。この文字を、七年間……私は何度も何度も見てきた。
 封筒を開けると、四つ折りにされたルーズリーフが入っていた。私はゆっくりとそれを開き、目を通す。
【この前は、色々とごめん。
俺達の最後のライブ、良かったら見に来て欲しい】
 あれだけ沢山の詩を書いてきたはずの彼が、私に宛てた手紙はたったの二行で、そのあまりにも味気無い文面に思わず笑ってしまう。そして更に封筒の中身を覗くと、そこには一枚のチケットが入っていた。
 音ちゃんと初めて出会ったあの小さなライブハウス。そこが、音ちゃんの最後のステージになるのだという。ライブの日は、来週の金曜日。
五月二十五日――マッキー達があの大きな舞台でライブをする日と同じ日に、音ちゃんは最後のステージでライブをする。長い間、ずっとずっと追い続けてきた夢を、その日音ちゃんは終わりにする決意を固めた。初めて音ちゃんがギターを弾き、歌っている姿を見たあの日を思い出す。あの時の真剣な眼差しを、私はいとも容易く脳裏に思い描く事が出来る――


 久しぶりに降り立つ東京の空気は、やっぱり地元のそれと比べたら何処か淀んでいて、だけどその空気にさえ懐かしさを覚えてしまうのは、東京で暮らした七年間の思い出がまだ記憶に新しいからなのだろう。けれど同時に、東京から離れて間もないというのにも関わらず、私の居場所はもうここにはないのだという事を漠然と思った。東京に出てきて、馴染むまでには意外と時間はかからなかったのに、離れた途端にこうやって居場所をなくす。もしかしたら東京というのは、そういう場所なのかもしれない。居場所がない人間のための、一時だけの安息の地。
「ここを出たら、会場はすぐだよ」
 地元から二時間半。地下鉄に乗り換えた時には、隣の芳信はほとんど喋らなくなっていて、ただ黙って私の後をついてくるだけだった。私の言葉に、少しほっとしたような表情になり、頷く。
私の田舎は、ほぼ一人に一台の割合で車を所有している住人がほとんどだ。それは、一時間に二本程度しか電車が走っていないという事もそうだけど、大型スーパーやホームセンター、酷い所だとコンビニに行くのにすら車がないと行けない距離に立地している為、圧倒的な車社会であるというのが大きな理由だろう。暗黙の了解的に車を持っている事が当たり前である世界で、電車を利用する機会などほとんど無いのだ。だから車の運転がどんなに上手くても、電車の乗り換えに悪戦苦闘する。田舎の人間というのは――少なくとも私の地元の人間というのは――ほとんどが一人で電車に乗る事を躊躇う。
例に漏れず、芳信はこの会場に着くまでにどんどん口数が減っていった。乗り換えが分からないから、私に黙って着いていく。ペーパードライバーの私は、何度か芳信の車に乗せてもらっていたけれど、その時の彼の軽やかな運転を見慣れているだけに、そのギャップが少しおかしい。きっと以前だったらそんな所に物足りなさや軽蔑を感じていたのだろうに、何故か今の私はそれを平然と受け止めてしまえた。それだけ、自分が東京から遠ざかっているという事なのだろうか。
 地下鉄の上りエスカレーターに乗り込み、地上へと降り立った。開演三十分前。既に開場しているせいか、思っていたよりは人がいない。それでも駅で待ち合わせと思しき人々の姿はそこかしこにあって、この人達全員がマッキー達のバンドを見るためにここに集まっているのかと思うと、地元期待の星のマッキーが、改めて私とは全く別の世界にいるのだと気付かされる。
「うわ……これが、あの有名な――」
 地下鉄の出口のすぐ傍には、会場への案内板が出ている。広大な土地に堂々と聳え立つその建物は、ここからでもよく見える。ようやく口を開いた芳信は、その建物の貫禄に圧倒されたのか、感無量と言った風情だ。それがどうしようもなく田舎者を思わせて、私は思わず笑ってしまった。
「ん? 何か面白い事あった?」
 あんたの行動がまさに面白い事だよ、と突っ込みたくなる所をこらえつつ、私はなんでもないと手を振って応える。そして会場へと向かって歩き出そうとした時だった。
「花ちゃん! 遅れてごめんね!」
 後方から慌しくカツカツと響いていたヒールの音がひたと止まり、よく通る澄んだ声が聞こえて思わず私は振り返った。
「あ」
 『花ちゃん』と呼ばれたらしい人物の姿は、すぐに見つかった。柵にもたれ、読んでいた文庫本をそっと閉じた彼女の、長いストレートの栗色の髪が揺れる。ピンと伸ばした背筋。細く長い手足は、ここから見ても彼女が長身である事がよく分かる。色白の頬。淡く桃色に染まった頬に、柔らかな笑みが浮かぶ。だけど私は、思わず人を惹き付けるような、その容姿に驚いた訳ではなかった。私は何度か、この女の子の姿を見かけた事があるのだ。

 そうだ。どうして忘れていたのだろう。この子は、ずっと昔からマッキー達のライブを見に来ていた。そう、彼らのバンドがまだ全然有名ではなかった頃から。彼らが大学生だった頃、まだ音ちゃん達のバンド目当ての観客の方が多かったあの頃から――。ライブ後にメンバーと話す機会だってあったはずなのに、ライブ後にはいつの間にか彼女は姿を消していて、だから逆に強く彼女の印象が残っていたのかもしれない。リズムに乗るでもなく、ただじっとステージを見つめていた彼女。今日の大舞台でも、やはり同じようにステージを見つめるのだろうか。
 彼女にとっての今日という日は、一体どういう意味を持っているんだろう。あの小さなライブハウスで歌っていたバンドが、こんなにも沢山の観客に見つめられて演奏する。それは、彼女にとっては喜ばしい事なんだろうか、それとも――
「……和歌。どうした? ぼうっとして」
 芳信が振り返ったまま微動だにしない私を心配して声を掛ける。私は辿っていた思い出を打ち消すように軽く首を振った。
「ううん。何でもない。行こう」
 それだけ言って、私は前を向き会場に向かって歩き始める。それにしても、と私は思う。彼女を呼び止めていたあのヒールを鳴らしていた女の人も。彼女に見劣りしないくらいの美人だった。……世の中はなんて不公平なのだろう。

-1の2に続く・・・