No-music.No-life

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スタート・ライン③-2

 金曜の夜にそのまま実家に戻り、日曜の夜に帰ってくると言っていたはずの歌ちゃんが、日曜の夜十時を過ぎても帰って来ていない。明日は普通通りに仕事があるはずだ。何かあったのだろうか。心配になった僕は、歌ちゃんにメールを送る事にした。
 メールを送ってから三十分後。ふいに携帯が震える。見ると、歌ちゃんからの着信だった。
『音ちゃん、連絡遅くなってごめん。急に、お母さんが倒れて……。何か動転しちゃって』
「え! 全然連絡が遅くなったのは気にしなくて良いから。それよりも、お母さんは……?」
『あ、うん。ただの疲労だって。だけど念の為二、三日入院をする事になったの。それで私も、有給たまってるから一週間くらい思いきって休みを取る事にしたんだ。だから少しの間、音ちゃん一人になっちゃうけど……ご飯とか、ごめんね』
 歌ちゃんは少し緊張していた声を緩めて言った。大変なのは歌ちゃんの方なのに、こんな時にまで僕のご飯の心配をする歌ちゃん。僕は頬を緩めて少し笑った。
「大丈夫。何とかなるよ。それじゃ、この機会だからゆっくり休んできなよ。お母さんの事も心配だけど、歌ちゃんもあまり無理しないで」
『うん、ありがと』
「それじゃ」と僕が言って、電話を切ろうとした瞬間だった。
『和歌』
 誰かが、歌ちゃんを呼ぶ声がした。見知らぬ男の声。だけど、この声は歌ちゃんの父親の声ではない。もっと若い――そう、僕と同年代くらいの――
『音ちゃん、ごめん。それじゃあ、またね』
 少し慌てたような歌ちゃんの声。ふいに途切れる通話。ツーツーツーと耳障りな音がいつまでも耳に残る。

 予感はしていた。いつかこういう日が来るのではないかという、微かな予感。
一週間後。歌ちゃんはようやく帰ってきた。少し疲労を滲ませて、だけどその目には何かを決意したような強い意思があった。
「音ちゃん、あのね……」
 歌ちゃんは言った。今の会社を辞めて、転職をするつもりだという事。そしてこの家を出て、実家からこっちの会社に通うつもりだという事。
「元々ね、今の会社は給料も安いし、このままでいいのかなって思ってたんだ。お母さんの事もあるし、やっぱり地元に戻ろうと思う。だけど向こうじゃなかなか就職も厳しいから、こっちで探して地元から通うつもり。音ちゃんには申し訳ないけど……ごめん、もう決めたんだ」
 歌ちゃんは申し訳なさそうに顔を歪めて俯いた。だけど僕には、何も言う資格なんてない。歌ちゃんが決めた事だ。それに、実家の母親の調子が芳しくないという状況で、歌ちゃんがそれを放っておけるはずがない事は、十分に分かっていたのだから。

「あーあ。また不採用だったよ。通勤距離がかかるだけでこんなに転職に不利だとは思わなかった。それに、手に職つけておけば良かったなって、今更思うよ。事務経験しかないから、それだけじゃいくら経験が長くても強みにはならないんだね。勉強になったよ」
 月が変わり、歌ちゃんは毎週のように面接を受けに出かけていく。普段仕事に行く時とは違い、ビシッと決めたスーツを着て、大きな黒い鞄を持って。そして疲れた表情で帰ってくる。もう何社も面接を受けているはずなのに、未だに一次面接すら通らないらしい。歌ちゃんは目に見えて疲労していた。だけど社会人経験のない僕には何のアドバイスも出来なくて、だからせめて愚痴くらいは聞いてあげる心積もりでいたのに、歌ちゃんはそれすら遠慮して僕にはほとんど話さない。
 歌ちゃんがどうして都内の会社に就職する事にこだわるのか。僕との同棲を解消し地元に戻るというのに、別れを切り出さないのは何故なのか。その理由が、自分にあるのではないかと気付いた時――自分からそれを言わなければならないと思った。僕がそれを言わない限り、歌ちゃんは多分、僕から逃げられない。その呪縛を断ち切るのは、歌ちゃんではない。僕なのだ。

 僕達は離れた方が良い――と、僕が言った時、歌ちゃんの瞳が揺れた。と同時に、歌ちゃんの瞳に涙が浮かんで、こぼれ落ちるまでの時間はほんの数秒にも満たなかったと思う。
「……いつか、言われると思ってたのに、駄目だね。何で涙が出てくるんだろう。ごめん」
 流れる涙をぬぐう傍から、歌ちゃんの涙はとめどなく溢れて止まらない。それでも無理して笑おうとしている姿は、僕の胸を締め付けた。
「ずっと、無理させてるって思ってたんだ。俺の存在が歌ちゃんの足かせになってるって分かってるのに、このままここにいて欲しいなんて言えない。歌ちゃんは、もう俺から離れるべきだよ」
 その涙を、ぬぐってあげたいと思った。だけど今、歌ちゃんに触れる事が怖い。離れて欲しくないと、行って欲しくないと思う気持ちが溢れ出してしまいそうで。それだけは駄目だ。歌ちゃんを繋ぎとめておきたいなんて思う事は、ただの傲慢だ。だからせめて、今の歌ちゃんの姿から目を逸らさないようにする。触れられないのなら、せめてきちんと彼女を受け止める。
「……音ちゃんは」
 苦しい胸の内を悟られまいと、それでも歌ちゃんを見ていると、歌ちゃんがぐいと涙をぬぐって僕を見る。小動物のようなくりっとした瞳に、攻撃的な程鋭い眼差しをたたえていた。
「……ずるいよ。結局、逃げてるだけだ。約束を果たせなかったのは、音ちゃんのせいじゃないと思うし、それに対しては納得できるけど、結局どうしたいの? 私は音ちゃんとずっと一緒にいたいし、離れたくない。だから実家に戻っても、こっちの会社に勤めたいと思った。少しでも、音ちゃんがいるこの東京と繋がっていたいと思ったから……。そんなの、良くないって分かってるよ。だけど、しょうがないじゃん。私はまだ、音ちゃんと一緒にいたい。約束なんて忘れて、結婚なんてしなくてもいいから、ただ音ちゃんの傍にいたい。なのに……」
 僕は瞬きも忘れて、歌ちゃんを見ていた。さっきまであんなに鋭い眼差しをしていたのに、今はもう、再び盛り上がった涙がぼろぼろと頬を伝ってこぼれ落ちていく。その姿は痛々しくて、僕は思わず目を逸らしてしまった。
「音ちゃんにそんな風に言われたら……諦めるしかないね」
 その時の歌ちゃんが一体どんな顔をしていたのか、目を逸らしてしまった僕には知る由もなかった。

 そのすぐ後――歌ちゃんが地元での就職を決めたと、僕に伝えてきた。あんなに沢山の会社の面接を受けていたというのに、こっちの会社の面接の結果はどれも不採用だったらしい。こっちでもし、採用が決まっていたら――と今となっては思う。そうしたら僕は、歌ちゃんを引きとめていただろうか。いや、それだけは絶対なかっただろう。僕は歌ちゃんの事をとても大切に思っていたけれど、だからこそ、一緒になってとは絶対に言えなかった。そう言えるだけのものを――歌ちゃんを幸せにする自信や経済力や包容力――そのどれもが今の僕には何一つなかったからだ。

 歌ちゃんの部屋の荷物が、綺麗さっぱりと運び出されてしまうと、ぽっかりと空いた隣の部屋が、こんなにも広かったのか――と、今更ながらに気付く。歌ちゃんは明日この家を、東京を出て行く。
 先に荷物や家具を引越屋に運んでもらったので、歌ちゃんの手元には小ぶりな鞄が一つ残っただけだった。終わりというものは、何だかひどく呆気ない。
最後の日は、ベッドがない歌ちゃんが僕の部屋で久しぶりに一緒に眠る事になった。
明日別れる事が決まっている恋人同士の僕らは、だけど驚く程冷静だった。あの時本音を打ち明けた歌ちゃんは、あれ以来もう何も僕には言ってこない。まるでただの友達に戻ったみたいに僕に接する。多分、僕に期待することをやめたのだろう。臆病者の僕は、本音を言う事が出来ないまま、歌ちゃんと接し続けてきた。だけどそれも、もうすぐ終わる。
「七年間って、長かったね」
 パジャマ代わりにしていたスウェットも、全てダンボールに収めて送ってしまったらしく、歌ちゃんは僕の服をパジャマ代わりにして着ている。身長も体型も、大して変わらないと思うのに、歌ちゃんが着ると何故だか少しだけぶかぶかになるから不思議だ。
「うん。だけど、短かったようにも感じる」
 僕は言った。別れが決まっているという事実は、もう避けようがない。だからこそ、僕達は驚く程自然にそれを受け止めていた。明日はもう歌ちゃんがここからいなくなってしまうというのに。
「私多分、あっちにいったら物凄くお局扱いされるんだろうなあ。田舎って結婚が早いから、三十近いっていうだけでお局扱いなんだって友達が言ってた。こっちだったら、まだ全然若いって言われるのにね」
「そうなんだ。でも案外、すぐに結婚しちゃったりしてね。歌ちゃんは魅力的だから、男が放っておかないと思うし」
 その言葉に、嘘はなかった。だけど、それは言ってはいけなかった。他の誰でもなく、僕は歌ちゃんに対してそれを言ってはいけなかったのだ。
「……じゃあ、どうして音ちゃんは私と別れるの?」
 地雷を――踏んでしまった。最後なのに。もう明日には歌ちゃんと別れなくてはいけないのに。
「そんな事、音ちゃんに言われる筋合いないよ。そんな事言わないでよ。音ちゃんなんて……約束も守れなかったくせに」
 今度は、歌ちゃんが地雷を踏んだ。僕が最も言われたくなかった事を、歌ちゃんは言ってしまった。
「なんだよ、それ。この前は約束の事理解してくれてるみたいな事、言ってくれてたじゃないか。そもそも、歌ちゃんだって、本当は向こうに男でも出来たんだろ? この前の電話で、男の声が聞こえたし。どうせ俺より、そっちを選んだんだろ?」
 もう、抑えが利かない。一度溢れ出した嫉妬は、醜く歪んで吐き出されていった。どうしてそんな酷い台詞を言えたのか。みるみる歌ちゃんの顔が歪む。
「何それ……。どうしてそんな風に言うの? 私は音ちゃんの事が好きなのに。それに、アイツは関係ない!」
 歌ちゃんは涙を流し、布団にもぐりこんでそっぽを向いてしまった。鼻をすする音がする。僕は謝る事も出来なくて、何も言わずにその場にうずくまる。そして思い出す。七年間――僕達はずっと一緒にいたけれど、考えてみれば喧嘩らしい喧嘩をあまりすることもなく過ごしてきた事を。それなのに、どうしてこんな日に限って、僕達は仲違いをしてしまうのだろう。
 ……物事の終わりというのは、呆気なくていつだって上手くいかない。