相原リョウは、横浜に住んでいる高校生だ。
内気で友達のいないリョウは、携帯を持っていない。
内気で友達のいないリョウは、携帯を持っていない。
そんなある日、公園でおもちゃの携帯を拾う。翌日、授業中に携帯の音が鳴り響いているのに気付く。
しかし周りの人の様子は変わらない。
しかし周りの人の様子は変わらない。
どうやら、自分の頭の中だけで携帯の音が鳴っているようだ。
恐る恐る電話に出てみると、男の人の声が聞こえてきた。
野崎シンヤという男の人は、壊れた携帯で適当に番号を押していたら繋がったといっている。
これは自分の中の妄想なのか?
真実を確かめる為、お互いがコンビニに行き雑誌の内容が同じであったら実在するという事を証明しようと試みた。
真実を確かめる為、お互いがコンビニに行き雑誌の内容が同じであったら実在するという事を証明しようと試みた。
すると、全く同じものが載っている!
しかし、リョウのいる世界では陽が落ち、辺りが闇に包まれた7時。
シンヤの世界では、陽が傾き始めた6時だった。
シンヤの世界では、陽が傾き始めた6時だった。
二人の間には、1時間の時差が存在した。
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孤独感を持て余していた二人は、頭の中の携帯で心を通わせていく。
話をすることが苦手だったリョウも、少しずつだが変わっていく。
そんなリョウには、偶然頭の電話で繋がった原田という女性とも交流があった。
凛とした大人の女性である原田に、憧れを抱きつついつも相談にのってもらっていた。
凛とした大人の女性である原田に、憧れを抱きつついつも相談にのってもらっていた。
そして、いよいよ二人が実際の世界で会う事が決まった時原田が意味深に言う。
その発言を不思議に思いながら、リョウはこれから会うシンヤとの時間に胸を膨らませていた・・
そして、再会の時が近づき-
そして、再会の時が近づき-
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2007年
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・・案の定、ダラダラとした印象を受ける部分がありました。
原作とは違い、シンヤは耳が聞こえず話が出来ないという設定も、最終的には丸く収まったのだけど(クライマックスで、リョウが嘘をついていることがそれが原因で分かるのだけども)果たして必要だったのだろうか?と思います。
確か原作では、実際の電話で話しをすれば早かった・・と気付くような場面があって、実際の電話のやりとりなんかもあった気がしたんですが、そうなるときっと映画化すると間が持たなかったんだろうな。
最後二人が会うシーンでも、実際に手話で言葉を表現しているのだけど原作では普通に喋っていたし。
その演出が、逆に回りくどくしていた感も否めないかなあ・・
それに、最初の頃なんか特にシンヤが喋れないというのが全然伝わってこないんですよ。
何でこの人何も言わないんだろう?と思ったら、実は・・みたいな。
何でこの人何も言わないんだろう?と思ったら、実は・・みたいな。
まあ、頭の中では会話をしているせいなんでしょうけど。
それと、リョウ自身も可愛いのに何でそんなに自信が持てないんだ・・というのはまあ仕方ないとして(笑)
殻に閉じこもるきっかけがピアノの発表会の時の出来事・・と言っていたけど、小学2年で深く傷つくものだろうか?
人それぞれ受け止め方は違うにしても・・何だかそのへんに説得力がなくて。
殻に閉じこもるきっかけがピアノの発表会の時の出来事・・と言っていたけど、小学2年で深く傷つくものだろうか?
人それぞれ受け止め方は違うにしても・・何だかそのへんに説得力がなくて。
まあ、ピアノを弾いているシーンで神童の余韻が戻ってきて良かったけれども。
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あと、主題歌や音楽を担当しているドリカムが・・また全然私にはピンとこなくて。
リサイクルショップで働くシンヤが直したオルゴールの音もドリカムで、リョウが弾く曲もドリカムで、鼻歌もドリカムで・・
そういう部分が妙に現実感がなく、更に物語のテンポの悪さが際立ってしまっていた気がする。
だけど、最後のこの物語のクライマックスともなるあの出来事の部分では、ちゃんと泣けた。
どうにかしてシンヤがこないように1時間前のシンヤに呼びかけるのだけど・・
携帯を持たない二人の共通して持っている腕時計で、そんな思いも虚しく・・シンヤはリョウの元に行ってしまうのだ。
携帯を持たない二人の共通して持っている腕時計で、そんな思いも虚しく・・シンヤはリョウの元に行ってしまうのだ。
でも、その割に最後の方でリョウが妙に淡々としている気がするんだよな。
まあ一人じゃないって言われたせいなのかもしれないけど。
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ただ、携帯を持っていない時って、人とどうやって連絡を取り合っていたんだったかなあ?とか色々考えさせられた映画ではあった。
その時は彼によろしくが満席になっていたけど、この映画は公開二日目なのに結構すいてました。
まあ私はこっちの映画の方がなけると思うのだけどね。