No-music.No-life

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スタート・ライン②-2

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 約束の期限が、もうすぐそこに迫っていた。だけど現実なんてそんな風に簡単にはいかない。僕らのバンドは、未だにこの小さなライブハウスですら、観客で一杯にする事が出来ずにいた。
「あーあ。今日も客少ねえ! っていうか、多分俺らのバンド目当てじゃないっぽいし」
 バンドのメンバーがぼやいた言葉が、今の僕には痛い程突き刺さる。五十人も入れば一杯になってしまうような、小さなライブハウス。僕達はいつか成功する事を信じて、もう十年近く活動を続けてきた。自分達でデモCDを作ってライブ会場で販売したり、精力的に音源をレコード会社に送ってみたりといった事は、今でも当然の如く続けている。だけど、芳しい結果はまるで得る事が出来ない。確かに結成当時に比べたら、ライブをやれば必ず来てくれる固定ファンも出来たし、観客の数も増えはした。だけど――結局それは、アマチュアの域を超える事はなくて、だからこうしてこんな場所で、僕達は観客の数を見ながらぼやくしかない。
「そういえばさ、夏音。マッキー達、ついに決まったんだってな」
 ああ――と僕は納得し、呟いたメンバーを見て頷いた。ミュージシャンであれば、誰もが一度は夢見る大舞台。収容人数は、約一万五千人。あの日、僕が歌ちゃんに約束をした、あの場所――いつかあの場所で歌える日が来る事を夢見て語り合ったあの日が、何十年も前のような気がしてくる。
だけどそこに立つのは、僕達ではない。僕達よりも、一年遅く活動をスタートした牧田達のバンドは、牧田達が大学在学中に発売したインディーズCDが話題になり、あの頃から小さなライブハウスを大勢の観客で埋めていた。最初は、僕達のバンドよりも随分観客は少なかったはずなのに、いつの間にか同じくらいに、しまいには比べ物にならないくらいに観客の数を増やしていって、とうとうメジャーデビューを果たした。彼らは着実に力を積み、僕達にその実力を見せ付ける。
圧倒的な、力の差。やっている音楽のジャンルはほとんど変わらないのに、ボーカルの牧田の完璧な演奏、歌声、そして人を惹き付ける容姿はあのバンドの核になっていた。そしてそれを支える、ベースライン。確かベーシストの円谷は、大学入学時から楽器を始めたのだと言っていた。出会った頃はあんなに下手くそだったのに、いつの間にか彼の引くベースに、味が出ているのが分かった。多分、円谷にしか弾く事が出来ない、あの重厚な音色。力強く、そして的確なビートを刻む、ドラマーの坂上。当時から残っているのはあの三人だけだけど、今の彼らは俺から見ても本当に良い演奏をするようになった。
僕達のバンドにはなくて、牧田達のバンドにあるもの。その答えは、もうずっと前から分かっていたはずだ。だけど、それを認めるのが怖かった。認めた瞬間に、僕が信じてきた何かが、途端に崩れてしまいそうで不安だった。

 ずっと、考えていた。三十歳という年齢は、一つの区切りなんだと。夢を追い続けていられたのは、僕がまだ二十代という若さを武器にする事が出来たからだ。若さというのは色々な意味で最も強い武器なのだ。若いという事で、許される事は、この世の中には意外と多い。

 ライブを終え、各々の終電の時間が迫ってきた事をきっかけに打ち上げをかねた飲み会をお開きにし、ほろ酔い気分で駅へと向かって歩いていた時だった。
「あれ? 夏音? 夏音だよな?」
 肩に背負ったギターを背負い直し、僕は振り返る。スーツ姿。ネクタイを緩めた男が立っていた。同じく飲んできた帰りらしく、顔が少しだけ赤い。何処かで見た事のある顔――誰だっけ?
「おいおい! 夏音、もしかして忘れたとか言うなよなー。俺だよ、俺! 本庄だよ。一緒にバンドやってたの、忘れたか?」
「ああ! 本庄か!」
 そうだ、どうして忘れていたのだろう。大学時代、一緒にバンドを組んでいた本庄だった。当時の僕はギター担当で歌は歌っていなくて、本庄がボーカルを務めていたのだった。それにしても、「将来は絶対バンドで成功する!」と豪語していたあの本庄が、今は堅実に会社に勤めているのか。大学卒業後、今は全く連絡を取り合っていなかったから、卒業後にどうしていたのかなんて知る機会がなかった。だけど今年で三十歳になるという事は、それなりの責任を任されているのだろう。顔を見てもすぐに本庄と気付かなかったのは、本庄の顔に何処となく疲労感が滲み出ていて、実際より老けて見えたという事もその理由なのかもしれない。
「思い出してくれたか? 夏音も、飲み帰りか? それにしても、久しぶりだな。夏音はまだ、続けてるんだな……それ」
 本庄が目を細め、懐かしそうに目をやったのは――僕が肩に担いでいたギターケースだった。
「なっつかしいなあ! 卒業してからもう全然触ってもいねえよ。弾けなくなってるんだろうなあ。結局、就職してから忙しくてそんな暇もなくなっちゃってなあ」
 本庄は笑う。本人にはその気なんてないのかもしれない。だけど、今の僕にはその言葉が痛い。就職しても、バンド活動を続けている人間なんて沢山いる。音楽が好きだったら、本気で続けていきたいと思っているのなら、仕事をする傍らでも続けていけるはずだ。だけど、本庄はそうじゃなかった。彼は多分、現実的に生きるという道を選んだのだ。夢を追い続ける、僕とは反対の道を。
「……大変そうだな。とりあえず、終電間に合わないから行くわ」
「お、悪いな。俺はこっちだから。今度ライブやる時には声かけてくれよ」
 じゃあな、と言いおざなりに手をあげてその場を離れる。お互いに、今の連絡先は知らない。だけど社交辞令でそんな台詞を言うのは、もう本庄には当時のような気持ちがないからなのだろう。実現する宛てのない約束。お互いにわだかまりを残さない、ある意味堅実な別れ方だった。社会人になれば、そんな事などざらにあるのだ。だからあまりにもそれは自然で、社交辞令である事に気付く事のないまま、終わってしまえそうでもあった。

 アパートに帰り着く。携帯を見ると、時間はもう深夜一時を過ぎている。だけど部屋の電気がついているから、歌ちゃんはまだ起きているのかもしれない。
「ただいま」
 中に入り、歌ちゃんの部屋を覗く。「お帰り」という声が返ってくるだろうと思って声をかけたのに、返事がない。
「寝ちゃったんだ」
 テーブルの上にうつぶせるように、歌ちゃんは眠っていた。テーブルの上には便箋とボールペンが転がっている。手紙だろうか。ベッドの上のタオルケットを引っ張ってきて、肩にかけようとした時――ふと、テーブルの上に置かれていた、二つに折り畳まれた手紙の文字が目に入ってきた。
【和歌子ももう三十になるんだから、そろそろ身を固めるつもりはないの? 今一緒に住んでいる彼とはどうなの? もし将来のことを考えないで付き合っているんだったら、お母さん、それもちょっと考えものだと思うわ。もしその気があったとしても、就職もせずにバンド活動を続けながら、アルバイトの生活なんでしょう? もし一緒になったら、和歌子が苦労すると思う。こっちに帰って来てくれれば、お見合いの当てもあるし、一度きちんと将来の事をお母さん達と話し合った方がいいわ。それと――】
 そこまで読んでしまって、僕は慌てて目を逸らす。当たり前の事なんだけど、歌ちゃんはきちんと今の生活と僕の話を母親に話していたんだ、という事に気付かされて動揺する。話をしてくれているのは、僕を信頼しての事なのだ――そう思うのに、歌ちゃんの母親の真っ当な意見が今の僕には痛すぎる。
 僕は歌ちゃんと将来の約束をした。だけど、あの頃から疎遠になっていた両親には、未だにほとんど連絡をする事はない。だから勿論、歌ちゃんと一緒に住んでいる事も、将来の事を考えている事なんて、僕の両親は知りもしない。だけど歌ちゃんは、きちんと親にその事を伝えている。きっと、こんな風に反対される事は分かりきっていても。その分、僕に比べたら何倍もまともに僕に向き合ってくれているという事だ。だけど――
「お見合い、か……当たり前だよなあ。俺と一緒になったら、絶対苦労するのが分かりきってるよ」
 僕は呟いて、歌ちゃんの小さな肩にタオルケットをかけた。歌ちゃんが僕と一緒に暮らすと決まった時も、歌ちゃんは両親を説得するのに大分苦労していたのを思い出す。大事な一人娘を、何処の馬の骨とも分からない男と一緒に住まわせる――そんな事、普通の親だったら簡単には納得しないだろう。だけど歌ちゃんは女の子と一緒に暮らす、というような言い訳は決してしなかった。きちんと僕の素性を伝えて、納得してもらえるまで努力をする。歌ちゃんは、そういう人間だ。
 数ヶ月かけて、両親を説得した歌ちゃんが僕と暮らす事に決まるまで、僕は一時的に友人に一部屋を貸して共同で家賃を支払いながら、何とか乗り切った。
そして歌ちゃんはこの家にやってきた。その頃にはもう、いつの間にか僕達はお互いを恋人として呼び合える関係になっていたのだけれど。
 あの頃――僕は全てに満たされていて、とても幸せだった。不安も、迷いも、何一つなくて。ただただ、未来が明るいと思っていられた。それなのに――今の僕には、不安や迷いや先の見えない未来しかない。