No-music.No-life

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スタート・ライン②-1

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 私は、両親から大事に大事に育てられてきたという自覚がある。それは、一人娘ゆえという事もあるのだろうけれど、片道二時間がかかるという大学に進学を決めた時ですら実家通いを強制させるくらいなのだから、両親は私が東京に出て行ってしまう事が単純に寂しかったのだろう。だから、大学卒業後、就職を機に都内での一人暮らしをしたいと言った時もかなりもめた。
「一人で何でもやらなくちゃいけないのよ? 和歌子は家でも全然手伝いもしないし、料理だって出来ないじゃない。大丈夫なの?」
 これは、母の意見。確かに私は、実家にいるという事に甘えて何一つ手伝いなどしていなかった。だけど、料理なんて本を見ながら作れば何とかなるし、自分しかいない環境に立たされたら、掃除だって洗濯だって、全て自分でやらなければいけないのだ。意外と何とかなるに決まっている。
「それに、女が一人で住むなんて。今の世の中物騒で、何があるか分からんだろう」
 これは父の意見。そんな事を言ったら、一人暮らしなんて一生出来やしない。というより、実家から出る事など到底不可能だ。
「じゃあ、どうすればいいのよ? 今までみたいに二時間近くかけて通勤なんて出来ないよ? せっかく内定取ったのに、今更それを蹴って地元で就職なんて、絶対無理だからね」
 私はそう言って、両親は困ったように顔を見合わせた。

「和歌子先輩、もう帰っちゃうんですか? この後打ち上げがあるのに、一緒に飲みましょうよ」
 嫌味のない爽やかなイケメン、おまけにギターも歌もかなり上手い私の後輩で、バンドのボーカルをやっている牧田君ことマッキーが私に言った。
「ごめんマッキー。参加したいのは山々なんだけど……終電に間に合わない。申し訳ないけど、帰るよ」
「え? でも、まだ九時半じゃないですか? 和歌子先輩って、まだあっちから通ってるんでしたっけ?」
 私は頷き、敢えて実家のある北関東の県名を伝える。大抵の人間がそうであるように、よくそんな遠方から……と同情と哀れみを含んだ眼差しでマッキーが私を見る。大学入学と同時に地元を出たマッキーは、高校時代まで私と同じ地元に住んでいたという事もあり、ここまでの距離がどの程度なのかを十分に理解している。
「就職決まったから、こっちに出てきたいんだけどね。親が一人暮らしをなかなか許してくれなくて」
「そうなんですか? なら、夏音さんと一緒に住んじゃえばいいのに」
「え?」と口にはしたものの、私は終電の時間が気になって、ちらちらと腕時計の針を見ていたので、心ここにあらず状態であった事は間違いない。だから私はその時の事をあまり覚えていないのだ。

 大学時代から私は、時々この後輩のマッキーのライブに誘われて、ライブハウスというものに行く機会があった。自分には音楽の才能はなくて聴くだけの専門ではあったけれど、多分人よりも音楽に詳しかったし、色々な音楽を聴いていたつもりだ。
 中学時代から仲が良かったマッキーが、私の通っている大学に入学してきた時、相変わらず彼がバンド活動を続けているというのを聞いて嬉しく思った。当時から顔も良くて、文化祭では自身のバンド演奏を披露しては絶賛され、例に漏れず女の子にももてていたから、仲が良いというただそれだけで悪口を言われたりする事だってあった。とんだとばっちりだ。だけど、早速入ったという音楽サークルで彼がボーカルを務めるバンドの演奏を見させてもらった時、当時よりも格段に音に深みが増して、声に安定感が出ていた事に驚いた。彼は、確実に力をつけていたのだ。
 彼の所属するバンドは、私が大学に在籍している数年の間だけでも、何人かが脱退しては別の誰かが加入し――を繰り返していたと思う。私は時々だけどライブを見せてもらっていたから、当時のメンバーの顔ぶれも割と覚えていたりする。
 当時から残っている現メンバーは、ボーカル&ギターのマッキーと、リーダーの円谷君とドラムの坂上君で、ギターとキーボードは彼らが大学を卒業すると同時に新たなメンバーが加入して今のメンバーに落ち着いたんだったと思う。今は全く別の世界に行ってしまったマッキーとはもう連絡を取る機会はないけれど、彼らがああして有名になるまでは、都内では音楽ファンには名の知れた小さなライブハウスを超満員にしていた。そんな事も――今となってはひどく懐かしい。

「和歌子先輩。こちら、この前言ってた、例の夏音さんです」
 先日のライブから何週間か後のこと。再び私はマッキーのバンドを観るために、ライブハウスに足を運んでいた。彼らのライブが終わった後、小さなステージから降りてきたマッキーが、隣に見知らぬ男の子を連れて私の元にやってきた。
 百六十センチはない私と、身長があまり変わらない。男の子にしては、小柄な方だろう。隣に立っているマッキーは男の子の平均くらいには身長があるから、身長差が際立ってしまっている。少しだけ猫背で、Tシャツの上にグレーのカーディガンを羽織っているのだが、見た感じではとても華奢だ。少しだけ癖のある黒髪の、丸っぽいシルエット。パッと見た感じは、浪人生のような雰囲気だ。良い意味で言えば飾らない、悪い意味で言ってしまったら地味な外見をしていた。その雰囲気と小柄で華奢な外見は、少年のようにも見える。私よりも年下なのだろうか?
「えっと。マッキー。例のって何? 話が見えないんだけど……」
 私は戸惑い、マッキーの顔を見る。マッキーはへらっとした笑いを浮かべて説明をしてくれた。
「和歌子先輩、この前の話聞いてなかったんですか? だから言ったじゃないですか。一人暮らしは駄目なんですよね? なら、ルームシェアすればいいんです。そこで今、ルームシェアしてくれる相手を募集しているこの夏音さんを連れて来たんじゃないですか。良い考えでしょう?」
 私も多分、相当驚いた表情をしてしまったとは思ったけれど、当事者であるナツオさんというこの男の子こそ、心底驚いた表情を浮かべていた。話が見えない、何を言っているんだこの男は……というような。そんな、戸惑った表情。少しだけ、親近感が沸いた。
「……ええと、牧田? どういうこと? それに、この子は誰?」
 ちょっとだけ険を含んだ声で、ナツオさんはマッキーを見上げた。マッキーは未だにへらへらとした笑みを浮かべていて、私とナツオさんの戸惑った表情とは全く比べ物にならないくらいに軽い雰囲気を漂わせていた。
夏音さん、この前聞いてきたじゃないですか。和歌子さんの事。ほら、チケットを取り置きする時に書いたメモに、和歌子さんの名前が書いてあって。その名前に『歌』っていう字が入っているって言って」
 瞬間――ナツオさんの顔にふいにポッと灯りがともったかのような笑みが浮かんだ。さっきまでの困惑した表情が、まるで嘘みたいに。
「ああ」納得がいったのか、ナツオさんはしきりに頷き――そして私を見た。
「君が、ワカコちゃんか」
 ナツオさんが笑う。元々少年のように見えていたその外見。笑うと、それよりももっと無邪気に見えた。
「名前、知ってたんですか?」
「うん。一方的に、だけどね」
 ナツオさんはそうかそうか、と一人で納得していて相変わらず微笑を浮かべている。私は戸惑いつつも、さっきマッキーが言っていた事を聞いてみる。
「あの、ルームシェアって?」
「ああ。今、同居してる奴が今度実家に帰る事になってさ。一人じゃとても、フリーターの俺には家賃が払えないから困ってた所なんだよね。だから今、同居相手を探してるんだよ」
 ナツオさんはそう言いつつも、そんな事をいきなり言われても困るだろ? というような目を向けてきた。確かに、そうだ。初対面の相手からそんな事を言われても、そんな話を受ける人間なんていないだろう。
「……それって、男子限定ですか? もし、私がそこに住みたいって言ったら、それってルームシェアじゃなくて、同棲になっちゃうんですかね?」
 それでも、私の中で心は決まっていた。『一人』暮らしが駄目なら、『二人』暮らしなら許してもらえるのではないか。そういう計算が働いていた。初対面とはいえ、マッキーを介して繋がりのある関係ではあるのだ。二時間かけて通勤をする事と、初対面の相手と一緒に暮らす事を私は瞬時に考え、計算する。答えは勿論、決まっていた。
「私で良かったら、一緒に住みませんか?」
 瞬間――目の前のナツオさんが、突然声をたてて笑いだした。体をくの字に曲げて、大袈裟な程に大きな声をあげて。私はその光景に戸惑い、困惑する。だって、一緒に住む相手がいなくて困っているのはあなたでしょう? 私は何か、変な事を言った? そう思ったら途端に怒りがこみあげてきて、私はぶすっと膨れてみせる。
 私の仏頂面を見たのか、ようやくナツオさんの笑いが収まる。失礼な事に、ナツオさんの目には涙がたまっていた。泣くほど面白い事を言ったつもりなんてないのに。
「ごめんごめん。でも、ワカコちゃん、思った以上にいいね。それに、俺としては一緒に住んでくれるのはありがたいよ。でも、曲がりなりにも俺は男だから、ワカコちゃんの家の人が許してくれるのかなって、そこだけが心配だね」
 唐突に、この人は私よりも年上だろう――という直感が働く。思い切り笑い声をあげていたけれど、この人は多分、思った以上に色々と物事を考えているような気がした。だから、私の事情を悟りそれを心配する。
「ああ、それは……今から交渉します。だから、私が返事をするまで、誰か他に候補がいたとしても、保留にしておいてもらえますか? お願いします」
 私は慌ててそれだけ言って、ぺこりとお辞儀をする。
「……了解しました。それと、今から俺、出番だから良かったら見てって」
 顔をあげると、ナツオさんはもう私に背を向けていてステージの袖へ歩いていってしまっていた。あれ? だとすると、あの人も――
「ナツオさん、俺と同じでバンドのボーカルやってるんですよ。何回か対バンしてるんですけど、和歌子先輩は見るの初めてですよね。かっこ良いですよ。ナツオさんのバンド」
 既に存在を忘れかけていたマッキーがすかさず説明をしてくれて、私は驚いて小さなステージに向き直る。小さいライブハウスだから、控え室なんてものはない。ステージの袖で剥き出しに置かれていたギターを手にし、チューニングを始めているらしいナツオさんの姿が見えた。その顔は、さっきまで私に見せていたどの表情とも違う、とても真剣なものだった。