No-music.No-life

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想いの果てに

 いつだって、人に嫌われる事を恐れていた。
頭が良いからと言って、目立ち過ぎてもいけない。運動が出来るからと言って、だけど決して出しゃばってはいけない。作文や絵画のコンクールで表彰をもらっても、得意気な顔をしてはいけない。
 私は普通。人並みに何でも卒なくこなせれば何の問題もない。誰かに疎まれる事もなく、煙たがれる事もなく、ひっそりと誰の迷惑にもならずに生きていけるなら、ただそれだけで良いと思っていた。
 そうすれば、好かれなくても人に嫌われる事なんてない。ならば、それ以上の何を求めるというのだろう。私はいつだって、平穏を求めていた。

 三年五組の教室。少し建てつけの悪い扉に手をかけた瞬間だった。
「無理無理! 俺、絶対――」
聞き間違えるはずはなかった。声変わりをしたばかりの、発育途上の外見とはまだ違和感のある声。だけど絶対に、他の誰でもないたった一人の声だと、聞き分けられる自信はあった。
 その後に続く言葉を、私はしっかりと聞いた。だから教室に入らず、その場を去る事だって出来たはずだ。だけどそれは出来なかった。私は、その言葉を聞いたのだ。それを、他でもないその言葉を発した本人に気付かせるくらいの何かは、残さなければいけないと思った。
 勢いよく、扉を開けた瞬間――ガランとした教室に残った三、四人の男子生徒が焦ったように私を見た――彼らを一瞥してから、私は自席にかけてあった鞄を取った。そうしてから、なるべく自然な態度で教室を後にした。その後ろで、「やべえ」「聞かれてたよな?」というような声が聞こえてきた気がしたけれど、何事もなかったように私は足早に下駄箱へと向かった。
ふと気が付いたら、駆け足になっていた。前がよく見えないと思ったら、とめどなく涙が溢れて止まらなかった。
――悔しい。それに、とても悲しい。
嫌われなければ良いと思っていた。だから、私の外見を笑う人間の存在を無かった事にしようとしていた。勉強や運動が出来ても、だからと言ってそれが好かれる理由にはならない事も分かっていた。「名前と顔があんなに一致している人もいないよね」と陰口を言われている事くらい、ちゃんと分かっていたはずだった。なのに――
 一体、この気持ちは何なのだろう。

 勉強も運動も出来て、いつも何かの賞をもらっていて、先生にも信頼されて――それでも足りないもの。
 先輩や後輩、同級生の、男女関係なく全ての人間に慕われる事。嫌われる訳ではなく、むしろ好かれる人間になるにはどうしたらいい?
 ――私はその日、変わる事を決意した。誰からも好かれる、完璧な人間に。

 小学校に上がるくらいの年齢には、既にかなりの近眼になっていた。当時は眼鏡をかけている子自体が少なくて抵抗があったけど、そうしなければ何も見えないのだ。抗う事など出来なかった。だけど今と違って昔の眼鏡は、視力が悪ければ悪い程レンズが分厚く、重たかった。いつでもその牛乳瓶の底みたいな大きな眼鏡が私の顔を隠した。
 小学校高学年の頃からぐんと伸び始めた身長は、女子の平均よりも大きくて、だけど目が悪い私は必然的に前の方の席を選んで座っていた。すると、私の後ろの席の子が私の身長が大きくて黒板が見えないと訴えてくる。そういう事が何度か続くうちにいつしか私の背は丸まって、自然と体を少しでも小さくさせようと意識するうちに、猫背が染みついてしまった。
 父親譲りの天然パーマは、私達兄妹にもしっかりと引き継がれてしまって、私達はとても苦労した。中学に入学する前に、先輩と何かトラブルがあってはいけないとストレートパーマをかけた兄を尻目に、私はその天然の状態の髪の毛で過ごした。櫛を入れれば途中で引っかかり、湿気が加われば更にボリュームは増し、まとまりがなくなった。まるで、鳥の巣のような髪の毛。
 だけど、そのどれを含めても嫌いな所なんてなかった。確かに欠点ではあったかもしれない。だけどそれが、自然のままの私だったから。
 私はここにいる。だからどうか、こんな私を受け入れて欲しい。思えば、私はずっとそんな独りよがりな思いを抱えていたように思う。


 今ではもう、そのきっかけさえ思い出せない。
気が付いたら、目で追っていた。いつの間にか、私の中でその存在が大きくなっていた。
 だけど、その想いを何処へやったらいいのかが分からない。それに、自分自身がどうしたいのかも、今ではもう分からないのだ。
「花。逃げちゃダメだよ。そうやって、自分の気持ちから、目を逸らしつづけたら、きっと何も変われない。前に進めないよ。このままじゃ、花は何も変わらないんだよ?」
 涼子ちゃんが、真剣な表情で私に言った。
「逃げて――いるわけじゃないよ。だけど今更……どうしたらいいのか、分からないんだよ、涼子ちゃん」
 ようやくそれだけ言った私は、目を伏せた。涼子ちゃんが何か言いたいのを我慢している気配がしたけれど、私はそれに気付かないふりをした。
「花……」
 少しして、涼子ちゃんが私を呼ぶ。私はゆっくりと顔をあげ、再び涼子ちゃんの目を見た。
「いつになったら、花は私に本当の気持ちを言ってくれるんだろうって思ってたよ。だから、気付かないふりをしてた。だけど――」
 涼子ちゃんは私を見る。挑むような強い目線を向けて。
「花がそんなに弱い人間だなんて、私は思ってないから。だから、私は待ってるよ。花が自分の気持ちと本気で向き合う気になってくれたなら、私はいつでも力になるからね」

 あの時、あの人に言った言葉は、自分自身への戒めでもあった。私は、努力して、ただあの人に釣り合うような人間になりたいとがむしゃらに走り続けてきた。いつか起こるだろう奇跡を信じて。だけど走り続けていたのは、私だけじゃなかった。あの人は、既に私とは全く別の場所へ向かって歩き始めていたのだ。私が到底辿りつけるはずもない、別の世界へと。
 あの時――私がずっと追いかけ続けてきた、目を逸らす事が出来なかったあの人と、面と向かって話す事の出来る、最後のチャンスかもしれなかった。だけどその時私は気付いてしまったのだ。私達は、別々の場所に立っている人間なのだということに。だから、真剣な表情で私を見据えるあの人の開きかけた口を封じるように、私は一息に言ったのだ。
「私ね、今、付き合っている人がいるの」
 あの時のあの人の――驚きと悲しみが入り混じったような表情を、今でも時々思い出す。だけど結局、あの人は「そうか」と呟いて、悲しそうに微笑んだのだった。だから私は、あの人が私をどう思っているのかを知らないままだ。知らない事で、私は馬鹿みたいに微かな希望に縋りついているのだ。


 追いかけて、追いかけて、追いかけ続けて、いつかあの人に釣り合うような人間になりたいと思っていた。
 誰からも好かれて、見栄えのするような容姿になって、完璧な人間になれたら――きっとあの人と向き合う事が出来ると信じてきた。信じて、ここまでやってきた。だけど、あの人はもう遠く、遠くに行ってしまった。私なんかが絶対に近付けない、遠いところへ。だけど私は今でもあの人を追う事を辞める事が出来ない。いつか――この想いが、あの人に届く時が来るのだろうか。
 あり得ない奇跡を信じて、ヘッドフォンから流れる音楽に、都会の街頭テレビから見ることが出来るその姿に、大きくて遠いステージの上にいるあなたを、私はいつだってその存在を遠く感じながら、追いかけ続けている。みっともなくて見苦しい程に。

 想いばかりが募って、どうしたらいいのかが分からない――