No-music.No-life

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スタート・ライン④-1の2

 会場は、外から見た時のイメージそのままに大きかった。驚いたのは、一万五千人規模の客席がほぼ埋まっている事だろう。会場内に入った瞬間、その圧倒的な観客の数に私は驚き、思わず感嘆の溜め息をもらしてしまった。開演までのあと数十分。耳に馴染みのある洋楽が流れ、開演を待つ観客の期待がざわめきと共に伝わってくるような気がする。
 私達は指定の席に着くと、同時にステージを見つめた。
「……遠い、ね。一応一階席らしいけど、アリーナ席じゃないから仕方ないか」
 私は思わず苦笑して、隣に座った芳信を見た。芳信はライブ自体が初めてらしく、比較対象すべきものがないせいもあって、「ああ」と無難な返事をする。私は再びステージに目を向けた。ドラムセット、キーボード、マイクスタンド、アンプ――様々な機材がセットされ、忙しなく係の人がステージ上を行き来しているのがかろうじて見える。名目上は一階席の、前から五列目の割と前の方の席という事にはなっているけど、ここからじゃマッキーの顔までは確実に見えないだろう。表情まで読み取ろうとしたら、双眼鏡が必要になると思う。ライブには慣れているつもりだったけど、そういえば私はいつも小さいライブハウスばかりに行っていた。だからこんなに大きな場所でのライブには一度も行った事がなかったのだ。ステージとの距離もほとんどないような、あの小さなライブハウスに慣れた私には、この大きすぎるステージを見つめる大勢の観客と、メンバー達のどうしようもない距離感を思って少しだけ悲しくなった。
 音ちゃんのラストライブは――五十人も入れば一杯になってしまうような、小さなライブハウスが舞台だ。何組かのバンドと対バンするようだけど、勿論トリだろう。となると、九時過ぎには音ちゃん達の最後のライブが始まるはず。このライブがアンコールを含めて二時間半近くやるとして――ここから、三十分もあれば辿り着ける。多分、間に合う。
 だけど――私はまだ迷っていた。行かない方が良いのではないか。このまま会わないで帰る事だって出来る。気持ちが定まらない。私はどうしたらいいんだろう。
 そんな事を思っているうちに、ステージの上で係の人間がチューニングを終えたらしい。観客席からその姿が見えなくなると、少しして音楽がやむ気配がした。そして――暗転。比例するかのように、しんと静まり返る会場内。音楽と共に、メンバーが舞台袖からしっかりとした足取りで歩いてくる。ある者は大きく手を振って、ある者は観客などまるで目に入らないかのように前だけを向いて。会場内が一瞬にして熱気と、歓声に包まれる。そして同時にほとんどの観客が立ち上がり、盛大な拍手を送った――

 重厚な音が私の体全体に響き渡り、この心を刺激する。彼らの人気が高まると共にチケットの入手も困難になり、演奏を見る機会も減っていた。彼らのバンドは、雑誌のインタビューこそ受けるものの、テレビでの露出は極力控えているというスタンスを取っていたから、演奏する姿を見たのはいつ以来だっただろう。今この演奏を見て思うのは、あの頃よりも格段に音に深みが増している事。これはもう、彼らにしか作れない音楽であり、彼らだけのものなのだと思うしかない。そんな、絶対的なものが彼らのバンドにはある。そう思わせるだけの音楽を、彼らは今この大勢の観客の前で奏でているのだ。
 ――そんな事を思いながら、何処か自分がこの場所に立っているという事が嘘のような、ひどく現実感のない思いを抱いてもいた。どうしてだろう。これだけ素晴らしい音楽を前にしているというのに、私の頭は冴えきっていて、目の前の光景をただぼんやりと見ているだけしか出来ない。隣の芳信をちらと見やると、圧倒されているのか緊張したような固い表情をして、ただじっとステージに目を向けていた。

 気付くと、ステージにいたはずのマッキー達が舞台袖に引っ込んでいて、ステージには楽器や機材だけが残されていた。それでも観客達は座る事もせず、精一杯の拍手を送り続けていた。てんでバラバラに打ち鳴らされていたそれが、いつの間にか一つの音になり、一定のリズムで打ち鳴らされる。それは、声を出してアンコールを叫ぶのと、全く同じ意味を持つ音だった。初めてその光景を見た芳信は、驚いてただただ「すげえ」と感心していた。
 そんな光景を見るでもなく、私は何故か自分がここに立っているというその事が現実ではないような感覚を拭えなかった。私は一体、何をやっているんだろう。ちらと腕時計を見やると、もう八時半になっていた。
 そろそろ――音ちゃんはスタンバイの準備をしている頃だろうか。それともまだ、他のバンドの演奏を見ているのだろうか。そんな事を思いながら、私はそれでもその場から動けなかった。自分が音ちゃんの元に行きたいと思っているのか、それとも行きたくないと思っているのか……。
「あ、出てきた」
 芳信がポツリと呟くと、ステージに再びライトが照らされ、メンバーの姿が現れる。打ち鳴らされていた拍手が、更に大きな音となって彼らを迎える。そして大勢の人間から発せられた歓声。
 ――ああ。もしあの場所に立っているのが音ちゃんだったら。私は多分、直視出来ない。
 沢山の、沢山の観客から一斉に見つめられて、それが自分の大好きな人だったら。私はそれを観ているのがきっと辛くなる。ずっとずっと、一緒に、私の隣にいたはずの人間は、自分のものなんかじゃないって気付いてしまうから。あの場所に立っている人は、自分なんかとは違う、全く別の世界にいる人間なのだと気付いてしまうから。私はそれが怖いし、きっと耐えられない――
 ふと、あの綺麗な女の子の姿を思い出す。あの子は、多分……彼らの昔からの知り合いなのかもしれない。ならばあの子は、今このステージをどんな気持ちで見つめているんだろう。ライブハウスで見ていた頃のように、目を逸らさずに見ているのだろうか。それとも――

 何曲かのアンコールを終え、「本日の公演は全て終了しました」というアナウンスが入ると共に、会場内の明かりがともり、観客が立ち上がり会場を後にしようと出口へと向かい始める。私は未だにその場に立ち尽くしていて、出口へと向かおうとしていた芳信につつかれてようやく我に返る。
「どうした? 後輩の晴れ舞台に、圧倒されちゃった?」
 そうやって芳信はおどけて笑みを見せたけど、私は何も言わずに首を振る。沢山の人間が一度に出口に押し寄せるせいか、私達も出口へと向かおうとしたものの、なかなか人の波から抜け出す事が出来ない。
「ごめん、俺ちょっとトイレ寄ってくわ。先行ってていいよ。後で連絡するから」
 途中で芳信がトイレに行ってしまい、私は人の波に逆らわないように歩いていく。
 私は……どうしたいの? 何をしたかった? ――腕時計を見る。時刻はもう、もう少しで九時になる所だった。人の波を、まだ抜ける事が出来ない。
 そろそろ、始まる頃かな。お客さんはやっぱり少ないのかな? ――さっきからほとんど進まない、出口へと向かう行列。
 最後の、本当に音ちゃんにとって、最後のライブなんだな。今日で、終わっちゃうんだ。――興奮して話をしている見知らぬ他人。ざわめきが、何故か遠くから聞こえるような。
 そして、ふいに思った。――私は、何をやっているんだろう。
思った瞬間、私は人並みを掻き分けて走り出していた。

 邪魔だ、お願いだからどいて! 道を開けて! 心の中で声にならない声で叫びながら、私は大勢の人間の波を掻き分けて駅へと向かった。私の手によって押しのけられた人が、不快そうに眉を寄せて私を見る。舌打ちをする人がいる。何なの? って文句を言う人もいた。だけど、関係ない。
 だって、今日で最後なのだ。早く行かないと間に合わない。どうかどうか、間に合って。そう思いながら、私はどんどん前へと進んでいく。

 地下鉄の入り口に辿り着いたのは、それから二十分も後の事だった。元々広くて広大な土地の中にあるこの会場だ。普通に歩いても結構かかる。だけど今日は人の波が邪魔をして、更に時間がかかってしまった。体中から熱を発しているように、熱い。額にうっすらと汗が滲む。階段を駆け下り、地下鉄に飛び乗った。間に合うだろうか――今は、そんな事を思う事さえ忘れて、肩を上下させていた。

 最寄の駅に到着し、私は無我夢中でライブハウスに向かって走った。だけどその時、中から観客らしき人達がパラパラと出てきたのを見て、絶望的な気持ちになった。ああ、間に合わなかった――
 それでも中に入り、チケットカウンターでチケットを差し出す。案の定受付の人に「さっき丁度終わっちゃいましたけど……」と言われたけれど、私は首を振って、ドリンク代の五百円を差し出す。そして会場の中に入ろうとした瞬間、携帯が震えた。見ると芳信からの電話だった。芳信、ごめん――私は内心で謝って、携帯の電源を落とした。
 防音の重たいドアを開ける。全力で走ってきたから、髪の毛も乱れてる。化粧も直してないし、それどころか汗もかいたからすっかり落ちてしまった。もしかしたら、これが本当に最後なのかもしれないのに。それでも私は、良いと思った。最後かもしれないなら、ならばそれでも会った方が良い。
 パラパラと観客の姿がある。やっぱり、今日もお客さんは少なかったようだ。そして視線を巡らしてすぐに、見つけた。ライブを終え、ステージ袖で楽器をしまおうとしているその、男にしては小柄な少し猫背の後姿。
 私は思わず胸が一杯になり、声を掛けようと思って歩みよっても、上手く声にならない。だけど彼は、私の気配に気付いてくれた。そして振り返る。
「歌ちゃん……」
 驚きで一杯に見開かれた目が、やがてすっと細められ――そして笑った。私が大好きだった少年のような顔をして。