No-music.No-life

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スタート・ライン①

(1)                   
 あの約束の日が、こんなに早くやってくるなんて思ってもいなかった。いや、違う。月日は、ゆっくりとだけど着実に過ぎていた。それを早いと思うか遅いと思うかは、多分自分次第であって、私はそれを早いと思ったのだ。そしてそれだけ自分も年齢を重ねていったという、ただそれだけの事なのだろう。だけどあの頃描いていた約束の日は、もっと素晴らしい日になるはずだった。まだ遠い、数年先の未来は何処までも自分の都合の良いように考えられたし、心の底からそんな未来がもしかしたら待っているのかもしれないと私は無条件で思っていられた。
 だけどいつからだろう。約束の日が数年後に迫った頃――二十五を過ぎたあたりから、だろうか――から、漠然とだけれど確かに私は、こうなる事を予想していた。歳を重ねる毎に、無邪気に想像できていた明るい未来は、いつの間にか現実的なものに変わっていった。
 そのせいだろうか。実際にこうして約束の日がやってきても、意外な程冷静にこの現実を受け止めている自分がいる。

 最後の一箱。ダンボールの蓋をガムテープで止めて、私は大きく息を吐き出した。そして、落としていた視線を上げると、いくつものダンボールが積み重ねられた、殺風景な六畳の部屋がそこにはあった。
 カーテンを外した窓からは盛大に初夏の日差しが差し込んできて、少し暑い。布団のないベッド、ダンボールの中に詰めてしまった本やCDが抜けているラックは何処か物寂しくて、私はようやくここを出て行くのだと実感する事が出来た。
 私は明日、七年間住んだこの家から、そして慣れ親しんできた東京を出るのだ――

                
「今の住所は都内になっていますが、ご実家、でしょうか? お引越をされる予定なのですか? 通勤時間がかなりかかるかと思いますが、通えますか?」
 もう何度目かの面接。毎回必ず聞かれる、同じ質問。
「はい。大学時代は実家から二時間近くかけて通っていましたし、問題ありません」
 面接官の目をしっかりと見て、私は強く頷く。決してその目線が揺らがないように。絶対的に私はその言葉を成し遂げる事が出来る、と言うように。もしかしたら無理かもしれないという思いを、微塵も見せないように。
「……そうですか。今まで、三十分程度の通勤時間で通えていたようですから、急に遠くなると大変ですね。大学時代とはまた違うでしょうから」
 にこやかに笑みを湛えながら、面接官はさりげない調子で面接者の私に皮肉を返してくる。私はその皮肉に気付かない振りをして、にっこりと微笑んで言った。
「いえ。確かに通勤に時間はかかりますが、通える自信はあります」

 お昼ご飯を買いにコンビニへ行き、アパートに戻ってくると、ポストの中に何通かのダイレクトメールや手紙が届いていた。右手で部屋の鍵を開けながらドアノブをひねり、左手でその手紙をひっくり返してみる。うちの一枚は、先日面接を受けたばかりの会社からの合否結果のようだ。あの面接では割と手応えがあったから、もしかしたら一次面接には合格しているかもしれない。期待を膨らませながら、慌しくスニーカーを脱ぎ捨てる。鋏を使う事すらもどかしく、私はビリビリと豪快にその手紙の封を開けた。
「……何だ。結構自信あったのに」
 目に飛び込んできたのは、『不採用』という三文字。それ以外にも色々と挨拶だの気遣いだの、馬鹿丁寧な言葉が連ねられていたけれど、読む気も起こらない。もう何度目だろう。実家に戻り、そこから今と同じように都内の会社に通うつもりで転職活動を始めてから、未だに『不採用』以外の通知をもらった事はない。
 気が付けば、今年で私は二十九歳になる。
北関東の田舎から、二時間かけて通った都会の大学。不況とは言え、都会には選り好みさえしなければそれなりに求人はあって、私は無難な事務の仕事を選んだ。有名でもない、そこそこの中小企業。新卒で就職して、丸七年。大学を卒業すると同時に家を出て、社会人歴と同じ年月を私はここ、東京で過ごしてきた。
「歌ちゃん、お帰り。ん? 何それ?」
 玄関から入って、すぐ左手にキッチン。すぐ先には二つの六畳間のドア。片方のドアから、彼が姿を現す。私の手元にある合否通知に気付いて、すかさず疑問を口にした。
「……この前の。ほら。面接受けたでしょ? その結果。不採用だって」
 私にとってはもう慣れてしまって、一社落ちたくらいでは今更痛くも痒くもないというのに、彼は途端に眉根を寄せて苦しそうな表情になった。
「……そっか」
「自信あったんだけどね。まあ、無謀だよね。確かに。通勤距離で落とされちゃう」
 私は自虐的に、だけど悲観的にならないように気をつけながら言ったつもりだったのに、彼は笑ってはくれなかった。そして、言ったのだ。
「ねえ、歌ちゃん」
「なあに?」
 私は彼の、強張った表情と固い声に気付かない振りをして、彼を見る。笑って済ませてしまえればいいと思ったのに、思っている以上に彼は固い表情を浮かべていて、私の笑顔は途中で不自然に固まった。
「……帰れる場所があるっていうのは、物凄く贅沢な事だよ。もし、東京で働く事にこだわっている理由が俺に関係しているんだとしたら、その選択は良くないよ。だって俺は、約束を守れなかったんだから。俺達は――」
 私は、瞬きもせず彼を見ていた。彼も、私を真っ直ぐに見つめ返してきた。
「……もう、離れた方が良い」


(2)
 和歌子、という名前には『歌』という文字が入っている。僕が歌ちゃんの存在を気になり始めたきっかけは、間違いなくその名前がきっかけだった。
 今から、七年前。僕がまだ、大学を卒業したばかりの二十二歳だった頃。あの頃の僕は、夢や希望で満ち溢れていた。小さい頃から音楽が好きで、中学の頃に出会ったギターがそのまま学生時代の青春になった僕は、周囲が堅実に就職を決め、社会に旅立って行っても、まだ夢を追い続けたいという思いには勝てなかった。内定していた企業を蹴って、僕がバンドで飯を食っていけるようになりたいという無謀な夢を追い続ける意思を伝えると、父親は思い切り拳で僕を殴り、母は泣いた。
 頭でっかちな両親は、若さゆえの衝動とか、これから花開いていくであろう才能だとか、そういう夢みたいな事を受け入れる器がない。だから僕の夢を頭ごなしに「無理に決まっている」と決め付けて、受け入れようとはしなかった。だけど――今になっては分かる。あの頃の両親は、決して間違ってはいなかったのだ、と。


「もし、俺が三十になった時にさ、バンドで成功して有名になって……そんで、その時にもまだ俺達が付き合ってたら、さ」
 歌ちゃんの、小動物を思わせる愛くるしい瞳が揺れる。口元には微笑が浮かんでいる。
「結婚しよう」
 二十三歳の春。桜の花びらが春風に乗って、とてもとても綺麗だったのを覚えている。歌ちゃんは何度かその目をしばたかせて、そしてにっと笑った。
「本気? 私がお嫁さんなんて、後悔しても知らないからね、音ちゃん」
 二十三歳。まだまだ七年後の三十歳なんて遠くて、だからそんな突拍子もない言葉を、冗談と捉えられてもおかしくなかった。だけど、歌ちゃんはそれを本気の言葉だと受け止めてくれた――と僕は勝手に思っているのだけど――だから僕は、夢を追い続けていられたのだと思う。両親には勘当されたような状態になっていた僕は、それでも一人でこの東京という街で生きる決意を固めていた。誰にも頼れない。たった一人で生きていかなければならない。だけど、隣にはいつも歌ちゃんがいたから、だから頑張ってこられたのだと思う。

 僕達が歩いていたその公園には、ミュージシャンであれば誰もが憧れるあの有名な建物が近くにあって、その建物を取り囲むように咲く桜が満開だった。その光景は今でも脳裏に焼きついていて、僕の胸をぎゅっと締め付ける。
「いつか、音ちゃんもこの場所で歌を歌う時が来るのかな? それは凄く嬉しい事だけど、ちょっとだけ遠くに行っちゃうみたいで寂しいかも」
 歌ちゃんがそう言って、少し俯く。男の割にはあまり身長が大きくない僕からでも、俯いた歌ちゃんの高く結い上げたお団子頭がよく見えた。その姿がたまらなく愛しくて、誰もいない場所だったら思わずぎゅっと抱きしめてしまいたくなる程に。だけどすぐに歌ちゃんは顔をあげて、僕を見た。
「音ちゃん」
 小動物を思わせる、小ぶりな瞳。瞬き一つすることなく、歌ちゃんは僕を見つめた。
「もしね。三十歳になっても私達が付き合っていて、それでも音ちゃんのバンドが成功していなかったら――」
 僕はごくん、と唾を呑み込む。
「別れよう。そうしないと多分、私達は駄目になっちゃうから」
 七年という歳月はまだまだ先だったし、こんな約束をしたところで途中で別れてしまう事だってあるかもしれない。それに、三十歳になる前に、僕のバンドが成功するかもしれないという、万が一の可能性だってあった。だけど、僕はその約束を受け入れた。約束が、約束として果たされる事はあるのかも分からなかったのに。歌ちゃんのその真剣な瞳を見ていたら、生半可な気持ちでそれを受け止めてしまっては駄目だと思ったのだ。

 オンちゃん――というのは、歌ちゃんが僕につけたあだ名だ。僕の名前は夏の音と書いて、ナツオという。勿論、夏生まれだからに他ならない訳だけど、今は全く連絡を取っていない両親に唯一感謝するとしたら、この名前を付けてくれた事だろう。僕は音楽が大好きで、自分の名前に『音』という文字が入っている事が何よりも嬉しかった。だから僕が歌ちゃんの名前を気に入ったように、歌ちゃんが僕の名前を音ちゃんと呼んでくれる事が照れくさいけどとても嬉しかったのだ。音ちゃんと僕を呼ぶのは、歌ちゃんだけだったから。
「ウタちゃん? 何だか、変な感じ。和歌子なのに、和歌ちゃんとかじゃないんですね」
 僕が歌ちゃんと呼んでもいいか? と聞いた時、歌ちゃんは照れているのか少しだけ頬を赤く染めて笑っていた。今まで、そんな風に呼ばれる事はなかったのだと言う。
「俺は歌ちゃんの名前の中で、とりわけ『歌』という部分に惚れてるからね」
 少しふざけた調子でそういうと、歌ちゃんは言ったのだ。
「じゃあ私も、夏音さんの事を『音ちゃん』って呼びます。良いですか?」
 一つ年下の歌ちゃんは、その頃はまだ少しだけ僕に敬語を使っていて、それが少しずつくだけて時々タメ口になるのが嬉しかった。そして、初めて呼ばれたそのあだ名は、驚く程すとんと僕の胸に落ちてきた。
「『歌』と『音』か。何か、俺は歌ちゃんと一緒にいたら、絶対バンドで成功出来そうな気がしてきたなあ。縁起が良い」
「そうですか?」
 きょとん、としたような歌ちゃんの表情。だけど何処か嬉しそうで、僕はその顔を見て本当に思った。きっと、この先にある未来は明るい。僕がずっと、歌ちゃんと一緒にいる限り――