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春風に舞う桜

 春なんて大嫌いだ――と唐突に可南子は思う。
 どうして自分が、こんな辛い目に合わなければいけないのだろう。春風に舞う桜。温かな空気と微かに香る甘酸っぱいような植物の香り。希望に満ち溢れているはずの春。何かが始まるような期待感を膨らませてくれる春。
 そんな春の始まりに、可南子の恋は呆気なく終わった。

 可南子にとってそれは、追いかけてばかりの恋だった。相手の気持ちが自分に向いていないのではないかといつも不安で仕方がなかった。手を繋いでくれない事に不安を募らせ、そのくせ可南子からは触れる事すら出来ない。
 だけど、好きだった。好きで好きで仕方がなかった。しかしそんな恋は、呆気ない程簡単に終わってしまったのだ。

「私、春なんて嫌い。新入社員の初々しさとかさ、大学とか高校に入学したばかりの、あの希望に満ち溢れてます! みたいな感じとかさ。見ていてなんか苦しくなるんだよね。何だろう? 自分も歳を取ったって事なのかなあ」
 可南子は言いながら、右手に焼き鳥の串を持ち、左手にビールのジョッキを手にしている。向い側に座るのは、可南子とは大学時代からの腐れ縁の浅川だ。浅川はそんな可南子を呆れたように見ながら、ふっと溜め息をついた。
「確かに、もう俺らも二十七になるわけで、そりゃ十代や二十代前半の若者と比べたら歳を取ったのも実感するけどさ。お前が春を嫌いになったのは、今回の失恋が原因だろうが」
「な……! そんな事ないもん。それとこれとは別問題なの!」
 可南子はうろたえたように目を何度かしばたくと、左手に持っていたジョッキをぐいと口元に持っていく。その豪快さに苦笑しながら、浅川もウーロン茶のグラスを持ち上げる。好んで酒を飲まない浅川の事を知っているはずなのに、いつだって可南子が失恋をする度にやけ酒の席に付き合わされている浅川は、今日何度目になるのかも分からない溜め息をついた。
 この流れで行くと、朝まで付き合わされる事は確実だな――と浅川は思う。酒に強い可南子は、失恋の度に酒に逃げる。そして限界が来るまで飲む。
 結果――

「うぇぇぇ。気持ち悪い。あーもう最悪。何でこうなるの?」
 何でって、自分が調子に乗って飲んだのが原因じゃないか! という言葉を毎度の如く飲み込みながら、浅川は可南子の背中をさすり続ける。明け方の駅の近くの公園には、先日満開になったという桜の木が見事に咲き誇っていた。
連日、二十度近い過ごしやすい陽気が続いているが、やはり春の早朝はまだまだ肌寒い。酒を浴びる程飲んでいる可南子とは違い、ウーロン茶を飲んでいただけの浅川の体は温まってはいない。冬の間着ていたコートを脱ぎ捨ててからは、スーツの上に何も羽織る事がなくても寒さを感じない陽気に安心していた。もし、昨日家を出る時点で可南子のやけ酒に付き合う事が分かっていたのなら、浅川は薄手のコートを羽織って家を出ていただろう。しかし可南子の招集はいつだって突然で、浅川の予定など一切お構いなしなのだった。

「浅川、今日帰り飲みに行こうぜ」
 金曜日の夜。今日の仕事にもおおよその目処が付いてきたなと思った頃合に、特に決まった誰からという訳ではないが、ほとんどの場合飲み会の話題が出る。勿論浅川は、いつものように一週間の仕事の締めくくりとしてその飲み会に参加するつもりでいた。しかも――
「それに、今日は毒田さんも参加するって言うし。レアだぞ。こんな機会滅多にないぞ?」
 声を掛けてきた浅川の同僚は、少しばかり声を低めて言った。浅川は驚き、思わず向こうの島にいる彼女――毒田という女性の姿を探した。すると、浅川の予想に反してこちらに目線を向けていた毒田と正面から目が合って、浅川は驚きと照れ隠しからにこりと微笑む。毒田もほっとしたように頬を緩めて、ふんわりとした笑みを返してきた。
「……しかし、珍しいな。彼女が飲み会に参加するなんて。もしかしたら、新入社員歓迎会以来じゃないか?」
 内心の動揺を悟られまいと、緩みそうになる表情を押し隠して同僚に向き直った浅川は、疑問を口にした。
「まあ、確かにな。でも、たまには飲みたい気分の時だってあるんだろ。お前もたまには飲めばいいのに。お前だって、飲めない訳じゃないんだろう?」
 同僚の言葉に微笑を浮かべた浅川は、「まあな」と言っただけでその場をごまかした。それよりも、今日は毒田さんが来る! その事実に舞い上がりそうになる気持ちを落ち着かせる事の方が先決だった。しかし――

 残務処理を終え、さて駅前の居酒屋へと向かおうとしたその瞬間だった。浅川の携帯が鳴る。この絶妙とも言えるタイミング。まさかこんな日に――嫌な予感を覚える。敢えてディスプレイを見ないよう、通話ボタンを押した。
「浅川! 今からいつもの所に集合ね! 遅刻しないでよ!」
 それは、可南子からの召集命令だった。それは、浅川にとっては何よりも優先しなければいけない出来事である事を意味する。
「……悪い。今日、やっぱりやめとくわ」
 諦めたように携帯を閉じると、その場に立ち止まって浅川は言う。
「はあ? 何だよ、急に。まあ良いけどさ」
 同僚は突然の浅川の申し出に呆れたように声を低めた。浅川は集団の中にいる、毒田の綺麗に背筋の伸びた立ち姿を探した。すぐにその姿を視界に捉えると、少し驚いたように目をしばたかせた姿が映った。
 ――ああ、くそ。こんな時に限って――浅川は思うが、それでももう完全にこの飲み会に参加しない方向で考えている自分を確かに感じてもいた。
「悪い。じゃあな、また月曜に」
 浅川はそう言って、駅に向かって駆けて行く。

 ぐったりとした体を起こし、早朝の公園のベンチに腰掛ける。春の早朝。少しずつ明るくなっていく空と、ひんやりとした空気が心地良い。そんな事を思いながら、少しずつ気分が落ち着いていくのを可南子は感じていた。
「お前も大概にしろよな。毎回毎回、失恋する度に吐く程飲みやがって」
 隣に腰掛けた浅川が、大袈裟な溜め息をついて言う。可南子と違って肌寒いのか、体を縮こませるようにして自分自身の体をさすっている。
「だって! 私振られたんだよ? どうしたらいいか分からないじゃん! お酒に頼るしかないじゃん! 悪いのは私じゃないもん! 私を振ったあの人が悪いんだ!」
 自分で自分の言い分に呆れながら、可南子は叫ぶ。だけど知っている。浅川はそんな自分をそれでも受け止めてくれることを。そんな優しさに、大学時代からずっと甘えてきた自分自身のことも。
「お前なあ……。そんな酔って潰れた奴の事を毎回毎回介抱してやってる俺の気持ちとか考えた事あるわけ? とか言って、毎度呼び出しがある度にのこのこやってくる自分も自分なんだけどな……」
 浅川は言って、苦笑いを浮かべた。しかしすぐに意を決したように言葉を紡ぐ。
「……確かにお前は、今失恋ほやほやで辛いかもしれない。けど、お前が彼氏と幸せだった時に、もしかしたら辛い思いを抱いてた人間だっていたかもしれないと思った事はないか? 例えばさ、お前の事をもうずっと、長い間好きなのにそれを言えないままでいる奴がいたとするよ。だとしたらさ、お前自身はもう幸せの絶頂っていうくらい幸せを満喫してたとするだろ? でもどうだ。そいつはさ、そんな幸せそうなお前の姿を見ながら、自分の気持ちも言えずに押し殺していたのかもしれない――」
 可南子は驚き――いや、驚いたふりをした。敢えて今気づいたかのように、真面目な表情を浮かべる。これは、きっと、いや間違いなく――
「もう長い間、ずっと思い続けてきて、だけど相手からは友達としか思われていなくて、しかも言いように使われて、今までの恋愛経験を多分本人以上に熟知してて、それでも気持ちを言えないでいた男だっていたかもしれない。その男は職場でちょっといいな、と思う存在がいるのに、だけどやっぱり諦めきれない気持ちを優先して、相手の誘いに応じてしまう、実はどうしようもない男なのかもしれない」
 可南子は相槌を打つことも出来ず、黙ったままただ真っ直ぐに浅川を見ている。
「だからさ――自分が今不幸だと思っているとしても、もしかしたら幸せを感じている人間が同時に存在するかもしれない、ってこと。同時に、自分が幸せを感じる瞬間に、確かに不幸を感じている人間がいるんだってこと。結局何が言いたいのか分かんねえけどさ、とにかく気を落とすな。男なんて星の数ほどいんだから」
 浅川は一息に言って、ベンチから勢い良く立ち上がる。そして大きく伸びをして、可南子に向かって手を差し伸べる。
「ほら、そろそろ始発の時間だし、行くか」
 少し照れたように頭をかきながら、浅川は笑う。可南子はそんな浅川を見て微笑んだ。
 今の台詞は、遠まわしの告白だったのだろうか――そう思いながらも、加奈子は敢えてそれを問いたださない。可南子と浅川のこの奇妙な関係は、これからもきっと続いていくのだろう。
 浅川の手を借り、可南子は立ち上がる。心地良い朝の空気に、桜の花びらが舞っている――