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1時間13分の奇跡<1>

 一時間十三分。
それは、彼女――春野桜子にとっては、極めて重要な時間である。
 さて、その時間とは何なのか? まず、最初に考えられるのは通勤時間だが、そうではないようだ。もっとも彼女は現在大学四年生で、就職活動は上手く行っていないらしかった。その為、大学生になった時から働いているスーパーでのレジ打ちのアルバイトを、卒業後もこのままでは不本意ながら続けて行く事になると危惧しているようだった。
彼女が友人や恋人と約束をする時には、必ず一時間十三分の余裕を持って待ち合わせの時間を決めている。という事は、家から待ち合わせの場所に行くまでに、その奇妙な時間が重要な意味を持ってくるという事だ。さて、その時間とは一体何の時間なのだろうか。
「え、海? 皆で?」
 足の爪を切りながら、器用に携帯電話を耳と肩の間に挟みつつ、桜子が声を上げた。動揺したのか、思わず深く爪を切り過ぎてしまったようだ。短く「痛っ」と声を出して顔をしかめている。
 どうやら、今度の週末に大学の仲間と海に行かないかという誘いを受けたらしい。七月も後半になり、長い夏休みが始まったばかりの彼女にとって――まして、就職活動を半ば投げ出している彼女だからこそ――その誘いには喜んで乗るのであろうと思ったのだが。
「ごめん、あたし就活あるし、無理みたい。皆はもう内定決まってるんでしょう? あたしはまだだからさ、頑張らないと……」
 予想に反して、彼女は誘いを断ったようだ。余程切り過ぎてしまった爪が痛かったのか、苦虫を噛み潰したような顔をしている。パチン、と爪を切る音がする。
 ――え? だって桜子、就職諦めたって言ってなかった?
「え? そんな事言った? 諦めたっていうか、もうことごとく面接受けた所が全滅だから、諦めたくなるって言っただけだと思うんだけど」
 ――そうだっけ……? まあいいや。分かった。それじゃあ、またね。
「うん、誘ってくれてありがと。じゃあね」
 桜子は手元の爪切りを一旦床に置き、器用に肩と耳の間に挟んでいた携帯電話をようやく手にし、電源を切った。何故だろう、大きく溜め息をついている。
「……海なんて……行ける訳ないじゃん……」
 絶望的とも言えるような低い声で、桜子は呟いた。
少なくとも、海に行きたくないという訳ではないようである。一体、どんな理由があって、断ったのだろうか?

「あら、今日はバイト?」
 玄関に腰を下ろしてスニーカーの靴紐を結んでいた桜子の背中から声を掛けてきたのは、彼女の母親らしい。おっとりした小柄な人物のようだ。
「うん。よく分かったね? あたし、お母さんにバイトだって話したっけ?」
 相変わらず目線は靴紐に向けながら、前屈みになった体勢で桜子が言う。すると、桜子の母がほがらかに笑って言った。
「だって桜ちゃん、学校とデートに行く時とバイトに行く時、全然別人みたいなんだもの。分かるわよ、お母さんだって」
 そう言いつつ、居間の方に戻って行ってしまった彼女に、その時初めて桜子が目線を向けて、呟く。
「……よく分かってるじゃないの、お母さん」

 桜子は、自転車に跨ってペダルを漕ぎ始めた。バイト先へは、自宅から自転車で片道五分程の距離。白のプリントTシャツにジーンズ、そして履きなれたスニーカーという格好は、確かにあまり女らしいものを感じさせない。彼女自慢の毛先が緩くパーマがかっている髪すらも、今は無造作に一つに束ねられているだけだ。そこには、ファッション性というものは見当たらない。
 しかし、普段の桜子と――例えば、大学の友人達と遊ぶ時などだ――自転車を漕いでいる今の彼女とは、確かに似ても似つかないのである。
 一重の、これと言って大きくもない目は、ボリュームのある上向きの睫毛と大きな瞳に変わっており、また、今一つに束ねているだけの髪は綺麗にアレンジされ、可愛らしさが強調されている。夏らしいワンピースに、細身のジーンズの裾を折ったものを重ね、ミュールを履いた爪先には綺麗なペティキュアが塗られている。
 彼女は、大学の友人達の間でも一番にもてる。合コンに行く度に何も事情を知らない男共が群がってくるので、他の女子が文句を言って、最近では合コンに誘われる事もなくなった。そして以前までは付き合っている男性がいたらしいのだが、何やら事情があって別れたらしい。

「二百三十三円、頂戴致します」
 客が差し出した商品を次々と手際良く――流石、四年もの経験は侮れない――バーコードでスキャンし、合計金額を意識して高い声を出して伝える。彼女は、最初こそ店のマニュアル通りに客と目を合わせてはいたが、最近ではいちいち相手の顔を見る事はしない。もっとも、今の状態の彼女に声をかけてくる男と言ったら、年齢層高めの親爺連中ばかりなのだが。
「……もしかして、春野? 春野だよね?」
 ふいに声をかけられた事で、普段だったら絶対見ない目の前の客の姿を見る事になった桜子は、瞬間――その場で硬直した。差し出された小銭を、取り溢しそうになったが、何とか受け止める。
「ぶ……毒田、君」
 桜子は明らかに動転した声を出し、必要以上に目を瞬かせていた。毒田と呼ばれたその青年は、目鼻立ちのすっきりとした美しい顔をしており、さらりとした色素の薄い髪が彼の整った顔立ちにとても良く似合っていた。
「あ、やっぱり春野だよね? 俺の事覚えててくれたんだ? 久しぶりだね」
 毒田と名乗った彼が、世の中の女子達を瞬時に虜にしてしまうような、柔らかな微笑を浮かべて言った。
「そ、そ、そんな……当たり前だよ、だって毒田君は――」
 桜子は、そこまで言いかけて口籠る。震える手を落ち着かせながら、慎重に受け取った小銭の金額をレジへと打ち込むと、レジのつり銭口からぴったりの小銭がジャラリと吐き出される音がした。
「……ううん、何でもない。でも毒田君って、都内の大学に行ってるんじゃなかったっけ? 今日はどうしたの?」
「うん、今夏休み中だから、一時的に帰省中。内定も決まってるし、焦る事もないから、ゆっくりしていこうかと思ってさ」
「あ、そう……なんだ」
 桜子は言いながら小銭を掴み、彼に手渡した。相変わらず、彼と目を合わせる事が出来ないでいるようだ。
「それじゃあ、またな」
 彼がレジ袋を提げて去って行く。桜子は、しばらく呆然と彼が歩いていった方向を見つめていた。

 彼――毒田太郎は、桜子の小学・中学校時代の同級生である。おまけに、桜子にとっては、初恋の相手でもあった。小学校の四年生の頃だろうか、当時から既に女子から人気者だった彼を、桜子もまた好きだったのである。しかし、この通り地味な顔立ち、特に秀でた何かを持っている訳でもなかった桜子には、彼に思いを伝える事など出来るはずもなかった。
 中学を卒業し、二人は別々の高校に進学した(彼は、秀才であったので、県下一の名門校――海成高校に進学した。桜子は至って普通の隣町にある私立の付属高校に入学し、そのままエスカレーター式に私立大学に在学しているという訳である)。その後、姿を見かける事もなく、また風の噂で彼が東京の大学に通っており、地元を出たという話を聞いてからは、その淡い恋心すら記憶の底に沈められていたのだ。
 桜子は、清算待ちの次の客から声を掛けられ、ようやく我に返った。半ば惰性的に商品をスキャンしながら、彼女は考えていた。
 よりによって、あの頃と代わり映えのしない姿で会う事になるなんて――桜子は唇を噛み締めながら悔やむ。どうせなら、あたしの……一時間十三分の努力後の姿で会いたかった――桜子は、その場で地団駄を踏みたい衝動を抑えながら思った。
 そう、一時間十三分という時間は――彼女の、変身後の姿が出来るまでの時間なのだ。そしてその素顔は、大学の友人達はおろか、付き合っている男の前では絶対に晒す事をしなかったのである。

「え? 合コン? あたしも行っていいの?」
 バイトから帰宅した桜子は、自分の部屋のベッドに腰掛けながら携帯電話を耳にして友人と話をしていた。どうやら、かなり久しぶりに合コンに誘われたらしい。
 ――って言うか、あんたが来てくれないと始まらないの。
「ええ? だっていつもあたしが行くと皆怒るでしょう?」
 ――まあ実際問題、参加した男子メンバーが皆あんたに群がるけどさ。今度の合コン相手の中にも、まああんたみたいな存在の男がいるみたいなのよ。基本的に良い奴なんだけど、必要以上にモテ過ぎるっていうの? だから、はっきり言うけど、今回はあんたとその男がくっついてくれる事が前提なの。そうすれば、今後の合コンに差し障る事はないでしょう?
「……うん、まあ」
 ――じゃあ、決まりね。今度の土曜日、夜七時からだから。よろしく。
「うん、バイバイ」
 通話終了のボタンを押し、携帯電話を畳んだ桜子は、深い溜め息をついた。彼女にとっては――今日、偶然に会ってしまった初恋の相手への恋心が湧き上がってきているというその事実に自身が驚いていたのだ。合コンなんて、と気乗りしないせいで自然と溜め息が大きくなった。
 それに――自分のこの素顔を知ったら、どうせまた相手は離れていくんだから――桜子は悲しげに目を伏せてベッドに倒れこんだ。


「初めまして。毒田太郎です」
 こんばんはーと、猫なで声を出しながら女子メンバーがとろけるような眼差しで彼を見つめている。しかし、唯一桜子だけが口をパクパクさせて彼を見ていた。
 すっきりとした目鼻だち、サラサラの色素の薄い髪。身長は平均的だが、その物腰の柔らかさと優しい微笑みは瞬時に女子メンバーの心を捉えたようだ。
「ちょ、ちょっと……来て!」
 桜子は動転し、今回の幹事役の女子メンバーを慌ててその場から引きずり出した。他の男女メンバーは驚いた顔で桜子の様子を見ていたが、気にしてはいられない。人目に付かない場所へと移動してから、桜子は強引に切り出した。
「一生のお願い! あたし、今回は偽名を使わせてもらう! だから、口裏合わせて! お願い。どうせ他の女子メンバーはあたしと面識ないから、少し位名前を偽った所で気づかないから!」
 幹事の彼女が、驚いた様子を隠す事なく戸惑いながら返事をした。
「……よく分からないけど、分かった。でも、あんたは太郎君をちゃんと捕まえてよ?」
「うん、うんうん! 分かってる。だからお願い!」
「……変な子。まあ良いけど、戻るよ?」
 渋々頷いた彼女に対し、桜子は今夜からあの子の家の方角に足を向けて眠れないな――と思ったのだった。


2へ続く・・