No-music.No-life

ヤフーblogから移行しました。

ふわり、香る(1)

その人を見た時、俺は自分が10年もの間、物凄い勘違いをして生きてきてしまったのではないか?と思った。

10年前、19歳という若さで死んでしまった俺の姉はもしかしたら死んでなんていなかったのではないか。

いや、しかしその考えは一瞬にして吹き飛んだ。
その人は、どう見ても俺と大して歳が変わらないように見えた。
もし姉が今も生きているというならば、10年の歳月を積み重ねてきているはずではないか。

それにしても・・と再びその人に目線を向ける。

その人は、熱心に新入生たちにビラを配りながらサークルの勧誘をしているようだった。

ピンと伸ばした背筋、色白の肌、長い手足を持て余すかのような長身、ストレートの栗色のロングヘアー、大きな目、頬はピンク色に染まって・・すれ違えばほとんどの人間が振り返ってしまうのではないかと思われる綺麗な顔立ち。

似ていた。
俺の10歳上の姉と、醸し出す雰囲気、外見に至るまでとてもそっくりだった。

俺があまりにもじろじろと眺めていたせいだろう。
ふいにその人の大きな目と、俺の目線がかちあった。

俺は突然のことに動揺し、目線をそらすことが出来なかった。
その人はゆっくりとこちらに歩みより、俺にサークルのちらしを手渡してこう言った。

「もし興味があったら、入ってみない?」

俺は何も言わずにそのちらしを受け取って、書かれている文字に目をやった。

『文芸サークル』

「基本的には、小説を書いたり、読んだり・・各々が好きなことをやっている感じだから、自由だよ。もし興味があったらいつでも来てね」

そう言って、その人は微笑んで新入生と上級生がごった返す人の波に戻っていった。

俺は何も言う事が出来なかった。

ああ、あの人は姉の生まれ変わりなのかもしれない。

近くで見ると、ますます姉にそっくりなことが分かった。
それに・・あの身に纏う雰囲気そのものが、姉のそれと似通っていた。

俺は再びサークルのちらしに視線を落とした。
そこには、あの人のものだろう。ふわりと甘い香りがかすかに残っていた。


大学1年生の春。
俺は今年、当時の姉と同じ19歳になる。



「良いに知ると書いて、らち君と読むのかな?」

「あ、はい。『らち』です」

何となしに聞いていた授業中、教壇に立っている大分ご高齢の教授がふいに俺を指名してきたことに驚き、何とも間の抜けた声が出てしまった。

そういえばこの人の授業はやたらと生徒を指名して答えさせるのだと、風の噂でちらっと聞いていたのだった。全く油断していた。

「良知君には、お姉さんがいなかったかい?」

しかし、教授の次の発言で俺は心底驚いてしまった。

「ああ、はい。確かに姉はこの大学の学生でした」

卒業は出来なかったけど。

「そうか、君が・・」

教授は、既にしわの沢山ある顔を更にほころばせて微笑んだ。
まるで孫の顔でも見ているのかと思われるほどに、顔中しわくちゃにして。

その後、俺を指名したくせにその答えに満足したのか、再び黒板に向かって板書を始めた教授の後姿をぼんやりと見つめながら、ああまだここに姉を覚えてくれている人間がいたのだ、と少し泣きそうになってしまう。

10年という歳月は、姉に関わっていた人々から姉の記憶を薄れさせるには充分だった。
姉が亡くなってから、1年、また1年と年を経ていく度に、家や墓を訪れてくれる人間は減っていった。

当時姉が付き合っていた彼氏も、3年位経った頃からすっかり姿を見せなくなった。
姉と仲が良かった友達も、時折思い出したようにきてくれることもあったけれど、その回数はめっきり減っていた。
そして何より、自分や両親に至っても少しずつ、少しずつだけれど姉がいない生活に慣れていった。

完全に忘れたわけではない。けれど、姉を子を失ったショックは少しずつだけれど回復していって、最近では両親も大分落ち着きを取り戻している。
俺自身、姉の存在は何処かおぼろげで(何しろ10年前の俺は9歳のガキだったのだ)存在自体が危うい。
だからこの前、あの人の姿を見た時、自分の記憶の底から這い上がってくるあの感じに自分でも戸惑いを覚えたのだ。

ふと教室から窓の外を眺めると、散り始めた桜の花びらが春風に舞いながらふわふわと漂っていた。



「・・良知智一です。好きな本のジャンルは・・ミステリー小説とか推理小説です。よろしくお願いします」

新入生歓迎会と称されたサークルの飲み会には、文芸部だというのに男女比がほぼ同じ位、しかも見る限り「お前は本当に本なんか読むのか?」という連中が多いことに面食らった。

とりあえず自己紹介と好きな本について何か一言、という部長の言葉があり新入生一人一人が自己紹介をすることになった。

さっきから聞いていると分かるのだが、見た目だけじゃなくほとんどの男が「本は・・携帯小説ならたまに読みます」だとか、「はっきり言ってあまり本は読まないです」とか・・明らかに本好きではないと思われる輩が多いのに驚く。

「今年もまた毒田さん目当てだね、毎年恒例。3年連続とは凄いわ」

ぼんやりと新入生の自己紹介を見ていると、近くに座っていた先輩(3年)と思われる人がそんな事を言っているのが耳に入ってきた。

「確かに・・去年私達が入った時も、男子のほとんどが毒田先輩目当てだったの見え見えで。身の程知らずというか・・今年は何ヶ月持つんですかね?」

そう言って苦笑する先輩(2年)の言葉で、あらかたのことは予想できた。

つまりはこういうことか。
女子は兎も角、男子の大半がその「毒田さん」目当てでサークルに入る、が、元々興味のない文芸サークルに飽きて数ヶ月で辞めてしまう輩が毎年沢山いるのだろう。

それにしても・・そんな凄い「毒田さん」とはどの人なのだろうか?
まさか・・とは思ったが、俺はちらりと席の隅で談笑しているあの人に目を向けた。

俺が見た限り、あの人以外にそのような人物は見当たらない。
けれど「ブス」って・・凄い名前だな。まさかな。

「毒田さん!こっち来て、代表で挨拶して!」

すると先ほど話をしていた3年の先輩が、あの人に向かってそう言ったのだ。

「え?私ですか?」

そうしてその人-毒田さんは立ち上がり、飲み会の中心にやってきて、挨拶をしたのだった。

そうして後程毒田さんの下の名前が「花子」だということを知る。

・・驚いた。
こんな偶然があるのだろうか。
良知「葉菜子」。
あの人は死んだ姉の名前と同じらしい。