No-music.No-life

ヤフーblogから移行しました。

それはまるで、春のような

電車の規則的な揺れには、どうしてこんなにも人を眠りに誘う力があるのだろう?

自分が通う海成高校まで、自宅から1時間半。
県下一の名門校とは言えども、県立の高校なので学生寮なんていう便利なものはない。
下宿先なんていうのも今のご時世そうそうないもので、勿論高校生の一人暮らしなど両親が許してくれるはずはなかった。

毎日へとへとになって帰宅し、夜遅くまで予習復習(おまけに、今年は受験勉強まである)。通学時間がかなりかかるので、早起きをしなければ間に合わない。
そんな生活の中で、睡眠時間は極限まで削られる。

入学したての頃は、それでも電車の中で単語の一つでも覚えようとテキストを読んだり、
電車の中でも勉学に励んでいたのだ。
しかし・・学校に慣れてくるにつれ、電車のこの規則的な心地良い揺れが、どうしようもない睡魔を連れてくる。

流石にこの進学校では授業中に居眠りなんてする輩は存在しない(または、隠れてうつらうつらしているのかもしれないが)ので、いつからか僕はそれならいっそ、諦めて潔く眠ろうと決めたのだった。

そうして往復3時間の距離は、足りない睡眠時間を補う貴重な時間になって今年で3年目の春。

僕は、彼女に出会ったのだ。


僕の自慢は、これまで2年間の通学で一度も寝過ごしたことがないことだ。
それは、体は睡魔に身を任せるが如く眠る体制をとりながらも、ちゃんと脳内ではきちんと起きている状態を意識的に取っているからだ。

僕は、必ず一つ手前の停車駅で目を覚ます。
ギリギリまで眠っていると、突然目覚めた体が活動し続けていた頭についていけなくなるからだ。

だから、学校のある数駅前の駅を過ぎた当たりで、ふわりと鼻先を掠めた甘い香りに僕は気付いた。
空いていた隣の席に、誰かが座る気配がする。

僕は都心からは真逆の方向に向かって通学しているので、都心方面の電車に比べると車内はいつだってガランとしている。
長い通勤距離であっても、ちゃんと座って、更に眠っていけるというのはとても大きなメリットだ。

それでも、少しずつ学校が近づいてくると同じ学校の生徒と思しき学生の姿がちらほらと車内に目に付くようになり、通勤のサラリーマンやOLなどと混じって、空席もまばらになってくる。

どうやら、この甘い香りは隣の席に座っている人から漂ってくるようだ。
興味はあったのだが、睡魔には勝てない。

だから僕がその子の姿をちゃんと見たのは、学校の一つ手前の駅で目覚めたときのことだった。

停車駅のアナウンスで、はっと目を覚まし、そして甘い香りのする右隣の席に座る人物をちらりと盗み見る。

大きな瞳に、長い睫毛。
伏せられた目は、手にする文庫本に向けられている。
何やら本を熱心に読んでいるようだ。

甘い香りの正体は、長く綺麗なストレートの栗色の髪から漂ってくるようで、邪魔なのか耳にかけられた髪の下に除くはっとする程色白の肌に、思わずどぎまぎして、目線をそらしてしまう。

そうして、また俯きがちに彼女を見ると、真新しい鞄に海成高のセーラー服を着ているのが分かる。

ああ、そうか。
昨日入学式だったんだっけ。

こんなに綺麗な子、いたっけな?
そういえば、なんだか凄く同級生の奴らが騒いでいたような気がするけど・・入学式の最中は、とにかく眠くて(春眠暁を覚えず、っていうくらいだし)それどころではなかったんだ。

ただ、入学生の名前に凄い名前の子がいたような気がするんだけど・・思い出せない。
何だったっけ?

そうこう考えているうちに、電車は海成高校前に停車する。

隣の彼女はパタンと文庫本を取り、背筋をピンと伸ばして立ち上がる。
周囲の乗客(海成生や、サラリーマンやOLたちまで)が、彼女をはっとした顔をして見つめる。

僕はそんな乗客たちと同じように、しばし彼女に見とれた。
そしてすぐに、電車の発車ベルが鳴り出して慌てて電車から飛び降りたのだ。

多分、これは・・一目ぼれかもしれない。

彼女は一体、何ていう名前の子なのだろう?

しかし、中学を卒業したてとは思えないほどに整った顔立ちをした彼女は、1年生の間、いや学校中の間で有名人だったのだ。

僕だけが何も知らなかったらしい。

「え?お前知らないの?あの子が例の『ブスなのに、美人な子』だよ。今年の新入生の中で、いや、学校一の美人だってもっぱらの噂」

友人の羽山が、心底驚いた顔をしてそんな事をいう。

「どこがぶすなんだよ、あの子が」

ブスなのに美人って、どっちなのだかよく分からないではないか。
何よりあれだけの美人にぶすだなんてよく言えたものだ。

「お前それも知らないのかよ!ったく、だからな・・」

そう言って、羽山は丁寧に教えてくれた。

彼女の名前が「ブスダ花子」というらしいこと。
さらりと紙に書いてくれた苗字は、なんだか難しくてよく読めなかった。
受験生だっていうのに、これでいいのか自分。

・・まあ、そんな訳で、入学式の時のインパクトのあったはずなのに思い出せなかったあの名前こそが、彼女の名前だったのだ。

それにしても・・何ていう名前!


翌日も、翌々日もブスダ花子は僕の隣の席に座り、甘い香りを漂わせながら文庫本を熱心に読みふける。

心地良い揺れ、鼻先にふわり漂う甘い香り。
それはどこか春の何かが始まる期待感に満ち満ちていて、だからこそ僕はいつもはやらないへまをやったのかもしれない。

何だろう、温かい。
そして、とてもいい匂いがする。
柔らかい。
くすぐったい。
何だろう?

「・・あの・・あの!すいません!」

はっと目を覚ますと、物凄い至近距離にブスダ花子の大きな瞳があった。

彼女は少しばかり困った顔をして、そして酷く焦っていた。

俺はあろうことか、彼女の肩に寄りかかって眠っていたらしい。
そして、気付けば海成高校前ではないか!

彼女は降りたくても起きない僕に困り果てて、声をあげていたのだ。
周囲の乗客は、彼女への同情と、僕への嫉妬にも似た目線を交互に向けながらただこの状況を見つめている。

「え、あ……ごめん!」

慌てている間に、電車の発車ベルが鳴り響く。

焦った僕は、咄嗟に立ち上がってしまい、その拍子に彼女の文庫本がバサッとその場に落ちてしまう。

慌てた彼女は文庫本を拾い、急いで出口へと向かおうとする。
しかし、周囲の乗客が何事かと彼女の近くに集まってきていたため(これだけ注目を集める美人というのも大変である)、容易にドアに辿りつけない。

見かねた僕は、彼女の細い手を取り強引にドアへと走り出た。
ドアが閉まったのは、丁度僕たちがホームに降り立ったのとほぼ同時で、二人はほっと大きな息をついた。

そして僕は、学校一の美人である彼女の手を、堂々と握っていることに気付いてはっと我に返り、手を離した。

何気なく今発車したばかりの電車を見ると、乗客たちから一斉に嫉妬と羨望の眼差しで見つめられていたことが分かり、明日はもしかしたら命が狙われる危険性があるのでは?と本気で思っていた。

「あの……ごめん。俺のせいで、何か大変な目に……」

彼女を改めて真正面から少しばかり見下ろすと(僕は男子の平均並みには身長があるのだが、彼女も長身のようである)、その端整な顔立ちにドキドキしてしまう。

「いいえ。でも、何だか面白かったです。こんなこと、滅多にないことだから」

ふふふ、と彼女は笑いぺこりと頭を下げて、改札のほうへと小走りでかけていってしまった。

ああ、彼女はなんだか春のようだな、と唐突に思った。

何か僕にとって、良い事を運んできてくれるかのような。
何か新しいことが始まる予感がするような。
温かくて、心地良くて、前向きになれる・・そんな、春のような。

とにかく、それが彼女との最初の会話。
そして明日からは、彼女が乗ってくる駅で目を覚まし海成高校前の駅に着くまで話をしながら学校に通うことになる。

これで15分ばかり睡眠時間は減ってしまったけれど、僕はそれ以上に大きな何かを手に入れたのだと思っているから、まあ良しとしよう。