No-music.No-life

ヤフーblogから移行しました。

「言葉」の力。

仕事柄、実際に製品を使用する人と電話で話すという機会がある。

大抵の場合、注文方法が分からないとか、何かに困っているという人から電話を受ける事が多いのだけど、時々こちらから確認の電話なんかもしなければいけない事がある。

今日はそんな電話で、2つのパターンを経験した。


一つは、注文をしたいと言っている人からの電話。
けれど、その人から注文を受けられないという事が確認出来たため、別の窓口に回したのだが、その窓口で再びこちらに電話してくださいと言われたらしく、たらいまわされてしまっていた。

大抵何度も色々な窓口をたらいまわしさせられたお客様は、お怒りになる。
私がその立場だったら、同じようにキレているだろうと思う。

こちらとしては、適切な案内をしているはずだった。
けれど、多分それが上手く伝わっていなかったのだと思う。

結局その人は、最後まで声を荒げることはなかったけれど、もう二度と買わない!と思われたかもしれない、なんて事を思った。

どう考えても、その人は何も悪くなく、こちらの対応に(別の窓口での対応も然り)問題があったからだ。
こういう時、自分の力不足を痛感する。




そして今度は自分から確認事項があって電話したパターン。

この人が大変良い方で、こちらからの頼みごとにも嫌な声一つ出さずにそれをしてくれ、しかもすぐに確認をしてくれて・・・

そういうお客様とやりとりをしていると、こっちも最大限誠意ある態度で臨もう!という気持ちになる。

そしてそれがきちんと相手に伝わって、「どうもありがとうございました!」とお礼を言われた時の達成感は何事にも代えがたい。

電話がとても苦手な私なのだけれど、こういう瞬間があるから頑張ろうって思える。

本当に良い人だった、この人。




どこからが本音で、どこまでが社交辞令なのか?

「今度遊ぼう」「会おうよ」「また遊びに来てね」「旅行に行こうよ」

友人や知人のその言葉を、何処まで本気で受け止めていいのか、最近よく分からなくなる事が多い。

大抵の場合、友人から「旅行に行きたいね」とか「旅行に行こうよ」と言われた時は、ほとんどが提案だけで終わるのは目に見えている。
だから本当に友人が計画を立てようと言ってくれた時は、とても嬉しくて、同時に驚いたものだ。


そして更によく分からないのが、「今度会おう、遊ぼう」という言葉。

社交辞令なのか、本当にそう思っているのか。

その判断はとても難しい。
だって私も、社交辞令でそう言っている事があるから。

何かの誘いを受けて、何処か尻込みしてしまうような、自分がそこに行く事が心もとないような気分になる時、
なのに誘ってくれた相手がやたらと私に固執しているのを感じると、まず不思議に思ってしまう。

「だって、別に私なんかがいなくても何も変わらないでしょ?」

そう思うのに、執拗に誘われたりすると、何かがあるのではないかと思ってしまうのは悪い癖だ。




だからその友達の提案も、「きっと実現しないだろう」と思っていた。
もし実現したら、あーとても楽しそうだと思うような、企画だった。

その提案を、まず最初に私に相談してきてくれた友人は、「一番最初に、すきま風に相談して良かった」とまで言ってくれた。

だからちょっとした事で意見が相違した時、私は言わなくても良い事を言葉にしてしまった。


私は、結構自分勝手な人間だ。
だから自分が計画していた事、想像通りに事が進まないと、苛立ちを隠すことが出来ない。

そしてその怒りを、あまりにも皮肉った言葉で投げつける。

そんな言葉はぶつける必要もなかった。
だけど、怒って無視する事も出来なかった。

だけど・・・言わなくて良かった、言わない方が良かった。


どうしてもその友達とは、ある事が原因で心から信じられない存在になってしまっている。
少しずつ、少しずつ前とは関係が変わってきているんだろう。

私のわがままを、暴言を受け入れる言われはその子にもないし、私は友達に甘える権利などないのに。


言葉って難しい。

こうやってわだかまって、結局その計画は実現しないような気が凄くしている。
実現したとしても、私がいない方が、多分、きっとうまくいく。