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永遠の隣

 結婚したの――と、まるで呼吸をするかのように自然に、先輩はそう言った。大学卒業後に入社して、そろそろ三年。営業という仕事のノウハウを一から教え込んでくれたこの先輩が、仕事の後にこうやって飲みに誘ってきた事自体、いつもだったらあり得ない事だった。誰とでも卒なく付き合う割に、会社の飲み会などにはいつも参加しない先輩の、その思いつめたような表情からも、不穏な空気を感じずにはいられなかった。

 三つ年上の、不細工でも美人でもないそこそこの外見。それなりに明るく、相談にも乗ってくれる気さくな女性である先輩は、同性にも異性にも頼りにされていた。ただそれは、男からモテるという類の人気とは違っていたけれど、新人の頃から仕事の失敗をフォローしてもらったり、成功を一緒に喜んでもらったりしていた俺は、いつしかこの人を好きになってしまっていた。もう大分長い事、気持ちを伝えるでもなく、かといって誰とも付き合わないという意思を貫き通そうとする程一途でもなく、宙ぶらりんな関係を続けてきた。いや、そう思っているのは俺だけで、先輩にとってはやっぱり俺はただの職場の後輩というだけなのかもしれないのだが。
「……おめでとうございます」
 動揺を、精一杯の努力で隠しながら、努めて自然にそう言った。すると強張っていた先輩の表情がふっと揺らぎ、微笑を浮かべて言った。
「違う違う。私じゃなくて。友達が」
 先輩は手にしていたグラスをぐいと煽り、静かにそれをテーブルの上に置いた。
「いや、友達……というよりは、好きな人が、と言った方が正しいかな」
 ほっとしたのも束の間、間髪入れずに突き刺さったその言葉。今度こそなんと返事をしたらいいのか迷い、結局俺は何も言い返すことが出来なかった。変わりに、グラスに残っていたカクテルを一息に飲み干した。
「今日、山崎君を誘ったのは、話を聞いて欲しかったんだよね。私とその人との関係を知らない、誰かに」
「関係?」
 ――男の方が結婚したにも関わらず、恋愛関係が切れていないとかいう事を意味するのだろうか。ますます落ち着かない気持ちになり、再びグラスに口をつけかけて、さっき飲み干してしまった事に気づいて後悔した。煙草を吸わない俺は、こういう時のさりげない時間稼ぎの方法を見つける事が出来ない。
「違う違う」
 先輩は再びそう言って、今度は顔の前で手を振って否定してみせた。何故か、面白そうに笑っている。
「関係って言ったら大げさかな。だって私とその人は、付き合った事なんてないんだから」
「……そう、なんですか」
 こういう時に、どういう人間だったらこの場面にふさわしい言葉をかけることが出来るというのだろう。少なくとも俺は、そんな人間ではないらしい。
「ずっとね、好きだったんだ。その人の事が――」
 先輩はすっと目を細めて、何処か遠くを見るかのように語り始めた――


 いつか、こんな日が来る事は分かっていたんだ。これは、私自身が選んだ道なんだから。だから、私には悲しむ権利なんてないのにね。
 昔からの仲間にこづかれながら照れたように笑う彼の姿を、私は直視することが出来なかった。その隣には、柔らかく微笑む私の知らない女性がいて――

 自分自身でも気が付かないうちに、いつの間にか彼を好きになってた。
きっかけは、確か大学時代につるんでいた仲間から、自然な流れで彼を紹介された事だったかな。それから、いつもの仲間達と遠出したり飲みに行ったり、特別な何かがあった訳じゃないのに、いつの間にか私達は「友達」になってたの。友達って、作ろうと思って作るものじゃないもんね。気付いたらいつの間にか友達になっているものでしょ?
 ……彼の存在は特別ではあったけど、同時に仲間達とつるんで過ごす時間も、同時に特別なものだった。彼と付き合ってみたいという想いは確かにあったし、周囲の友人達が彼氏という存在が出来て、充実した毎日を送っているように見えてうらやましくは思ってた。けれど私には仲間がいて、彼氏がいないという事が、別段寂しいことだとも思えなかったの。
 ――あれは大学二年の時だったかな。仲間のうちの一人と、彼が付き合いだした事を知った。あの時の衝撃――そんな素振りなど微塵も見せていなかったのに……それともただ、私が鈍感なだけだったのか。自分の知らない間に、いつの間にか恋愛関係になっていたその友人と彼に、私はただただ驚いて、悲しいという感情を何処かに置いてきてしまったような気分になったよ。
 それから一年くらいの間、いつもの仲間達とつるんでいる何気ない瞬間に、彼が友人に向ける優しい目を見てしまう事があった。彼は友人想いの良い奴で通っていた人だったけど、その優しさとはまた違う、慈愛に満ちたその目は、私の心を落ち着かなくさせた。そんな風に、彼は私を見てくれた事などなかったから。
 辛いと思う事、二人の姿を見ていたくないと思う感情に蓋をして、私はその事実から目を逸らし続けた。彼女がいる人を好きで居続ける事にメリットなんてないでしょう? そんな事をしている間に、色々な人と知り合って、付き合ったりする方が、自分にとっても絶対貴重な経験が出来る訳だし、何より一人の人を、しかも振り向いてくれない可能性が高い人だけを想い続けていられる程、私は歳を重ねてもいなかったんだろうね。あの時はまだ、二十歳そこそこだったし。それに、その彼女は自分の友人でもあって、同時に彼も私の友人だたから、友達なんだと割り切って、気持ちを押し殺しながら付き合い続ける事はそれ程苦しくはなかったの。そう、あの時までは。

 だけど――。いつの間にかいつものメンバーの中から友人の姿が消えてた。あれは具体的にいつ頃からだったのか、それを明確に思い出せない程自然に、友人は私達の輪から抜けていたの。
 明確に二人が別れたという話が出た訳ではない。だけどそれはもう、暗黙の了解で仲間の皆が理解していて、今までずっとつるんできたはずのその友人の名前はまるでタブーであるかのように、誰も口にしなくなった。そこまでされたら、私だって気付いた。ああ、二人は別れたんだなって。
 何があって、二人の関係が終わってしまったのかは、誰も聞かなかったし、聞けなかったし、私は知りたくなかったから、何事もなかったようにその人に接してた。だけど、もし私がその友人の立場にいたとしたら――ふと、そう思ったの。
 一番近くにいられるその場所――彼女、って事だけど――それは、よく考えたらとても不安定な場所だよね。いつその場所から立ち去らなければならない時が来るかも分からないし、上手くいけばずっとその場所にいられるかもしれない。誰よりも近いその人の隣にいられるという特典は、もしかしたら凄く短い時間で終わってしまうものなのかもしれない。なら――敢えてそんな場所に行く必要なんてある? だって今のまま、友達のままでいれば、永遠に近くにいけない代わりに、それでも永遠に……まあ友情が終わっちゃうという場合を想定しないで話すけど……その人と関わっていける訳でしょう?
 そう考えた時に、私は決めたの。この人の事は大好きだけど、友達のままでいようって。だからね、それから何度か、新しく彼女が出来たという話を聞いたり、実際にその彼女と一緒にいる場面を見てきた。その人はやっぱり、私達仲間とつるんでいる事も好きだったんだろうね。彼女が出来ても、彼女を連れて私達と一緒に遊んだりする事が多かったんだ。
 凄く可愛くて、それでいて性格まで良いっていう彼女と会った時は、もういっそ諦めようかと何度も思ったよ。でも、そういう子でも意外と長く続かなかったりしてね。だから、今回は本当に驚いた。
 結婚することになった、って連絡が来たの。でも、相手は私も、仲間も、誰もが知らない人だったんだ。びっくりしたよ。今までだったら、ちゃんと彼女が出来る度に紹介してくれてたのに。
 だからきっとね、本気なんだなって思った。だから結婚するんだって思った。私がずっと憧れ続けたその人の隣に、その彼女はずっといられるんだ。そう思ったら、もうね、どうしようもなくなった。
 披露宴には参加出来なかったんだけど、二次会には参加したの。でも私、披露宴に参加してたら、きっと泣いてたかもしれない。純白のドレスを着て、とても綺麗なその人と、長い間ずっと好きだった人が寄り添う姿を見たら――


 泣いてたかもしれない、と言った先輩は、そう言いながら実際に涙を流していた。急に止まった先輩の独白に、不思議に思って先輩の表情を盗み見ようとして、俺はその事に気付いた。
「……自分で選んだ道なのにね。その人の一番近くにいられる権利を放棄した私が……。だから私は、それを祝福出来なければいけないのに。こんな風に、悲しくなったりする事自体が、間違ってるのに……」
 泣きながら、そこまで言った先輩は、しかしすぐに自分の手で涙をぬぐった。潔く、力強く。
「あーあ。流石の私も、結婚しちゃった人の事は想い続けてられないわ。もう三十代も目前だしね。何処かに良い出会いが転がってないかなあ」
 にっと笑った先輩は、「さ、飲もう飲もう」とさっきまでのしんみりとした空気を一掃するかのように、店員に追加オーダーを頼んでいる。
 そんな先輩の姿を見ていた俺は、ふと気付く。もしかしたら――
今、先輩の一番近くにいるのは、自分なのではないか? 恋愛感情を持たれていなかったとしても、ただの職場の先輩後輩関係だと思われていたとしても、それでも先輩とワンツーマンで営業をしている自分は、形は違うかもしれないけど、確かに先輩の一番近くにいる。
「あ、この曲!」
 威勢の良い店員が、ジョッキに入ったビールを運んで来た。それを受け取った先輩が、店内に流れるBGMを指して言った。
「二次会で得したな、って思ったのがね。なんと、このバンドが相手の子の知り合いだったの! 貴重だったよー。あんな所で生のライブが見れるとは思わなかったもん! 別にファンでもなかったのに、好きになっちゃったなあ」
 そのバンドは、自分がまだ高校生だった頃にデビューをし、今でも第一線で活躍し続けているバンドだった。自分も結構好きで、CDを何枚か持っている。
「……なら、行って良かったんですよ。先輩の気持ちの区切りをつけるためにも。それだけの決意で行ったんですから、それぐらいの見返りはないと」
 俺はようやくまともな言葉を口にした。先輩は、虚をつかれたような表情を一瞬だけ浮かべた。そして、途端に顔を歪ませて泣き笑いの表情を浮かべた。
「……うん、行って、良かった」
 そして、少しの間だけ俯いた。再び溢れ始めた涙を、必死でこらえているのかもしれない。
 こういう時、どういう行動を取ったら気の利いた態度になるのだろう。考えて考えて、俺は追加オーダーを頼んだ。
「先輩、今日はとことん飲んで食べましょう。先輩が嫌になるくらい、俺はずっと先輩の傍にいてやりますから!」
 照れ隠しのつもりで威勢良く言い切った俺に、ようやく顔をあげた先輩は、怒ったような口調で言った。
「山崎、何で上から目線なわけ? 先輩に向かってその態度、許せん! 今日は朝まで付き合ってもらうからね!」
 ニヤリと笑った先輩の顔は、やっぱり美人でも不細工でもない顔だ。だけど俺は、そんな先輩の顔が結構嫌いではないのだ。
「望むところです」
 先輩に負けないくらいにニヤリと笑い、俺は手にしていたジョッキを先輩のジョッキに合わせた。