No-music.No-life

ヤフーblogから移行しました。

向こう側

 私はきっと、「向こう側」に行く事は絶対に出来ない――ふと、そんな事を思う。視界の先では、純白のウエディングドレスを身に纏った会社の同僚の涼子が、晴れやかな笑顔を浮かべている。
 今、涼子やその新郎が存在している場所が「向こう側」だとするならば、私と彼女たちの間にはとてつもなく高く、越えられない壁が存在している。その壁を、私は絶対に越える事は出来ないのだ。

 気付いたら、三十歳まであと一年を切っていた。
キャリアを積み、大きな仕事を任されるようになり、充実した毎日を過ごしているという友人。または結婚、出産を経て子育てをしながら忙しいけれど幸せな毎日を送っているという友人。いつしか私の周囲は、そのどちらかの人間ばかりになっていた。キャリアもない、誰にでも出来る仕事を淡々とこなし、大きな不満もないけれど、充実する事もない毎日をただ淡々と過ごしているだけの自分は、そのどちらにもなれない。私は常に「向こう側」には行けない人間なのだと思っていた。
 子供の頃、二十歳になったら自分はきっと結婚しているのだろうと思っていた。あの頃、二十歳の人間というものがあんなにも大人に思えたのは、やっぱり当時の自分がどうしようもなく子供だったからに他ならないのだろう。三十が目前に迫った今、二十歳そこそこの新入社員の姿を見ると、どうしようもない程の焦燥感に襲われる。彼女達は絶対的な若さを持っていて、しかもその事に無自覚だ。それは時に残酷で、絶望を感じる程に彼女と自分の立場や年齢の違いというものを容赦なく私に突きつける。

「続きまして、新婦の友人、毒田花子さんからご祝辞をお願いしたいと思います」
 新郎の友人の男性の祝辞が終わり、続いて紹介された涼子の友人というその女性を何気なく見ると、はっとする程に整った顔立ちをしていて思わず見とれてしまった。スピーチをする為にマイクの前に立った時の、ピンと伸ばされた背筋。高い位置で一つにまとめられた髪型のせいか、とても小さく見える顔。驚く程に大きな目と、ほんのりと桃色に色づいた頬。ノースリーブのシンプルな色合いのドレスから覗く、色白で長い手足。自信に満ち溢れたその立ち姿は、下手をしたら今日の主役である新郎新婦の姿さえも霞んでしまいそうな程の存在感があった。涼子もそれなりに綺麗な顔立ちをしている子だと思っていたけれど、この毒田とかいう女性を見てしまった後では、そんな風に思っていた事すら一瞬忘れてしまいそうになった。私は目の前に出された料理に手を付ける事も忘れて、しばらくその女性に見入っていた。
「本日はおめでたい席にお招きいただきまして本当にありがとうございます。
私は新婦の涼子さんの大学時代の友人で、毒田と申します――」
 想像していたよりも、少しだけ低めの声をした彼女は、しかし明朗な心地良い声でスピーチを始めた。
 その声をぼんやりと聞きながら、私は思う。あの女性は勿論「向こう側」の人間なのだろう、と。あんなにも綺麗で全身から自身に満ち溢れたような女性は、きっと生まれた時から私なんかとは全く別の場所に立っていたのだろうと思う。いつかは私も「向こう側」に辿り着ける日を夢見て、ひたすらに真っ直ぐ前を向いて歩いていたとしても、結局は「向こう側」に続く道に辿り着くことは出来ない。最終的に合流するものだと思っていた道は、いつまでもいつまでも交わることはないのだ。あの女性のように、「向こう側」の世界を歩く事など、一生叶うはずなどないのに。それでも私は、いつまでも夢を見て何にも気付かないまま、ただひたすらに与えられた道を真っ直ぐ歩き続ける。

「――お二人の末永いお幸せをお祈りいたしまして、私からのお祝いの言葉とさせて頂きます」
 はっと気が付くと彼女は、丁寧にお辞儀をしてその場を去ろうとしていた。自席へと戻るまでのその颯爽とした歩き方。新郎新婦の友人達と思われる人達が、彼女の姿を目だけで追いかけているのが分かる。ただ歩いているというその姿さえ、多くの人の目を惹き付けてやまない。――やっぱり彼女は、「向こう側」の人間なのだろう。

 披露宴を終え、会場を後にしようとした私の耳に飛び込んできたのは、聞きなれた新婦の――涼子の声だった。私は振り返り、その姿を確認する。
「花、二次会には円谷が来てくれるよ。私達のために、メンバー皆でスケジュールを合わせて、来てくれるんだって言ってた。今じゃお金を払ってもチケットを取ることすら難しいんだから、物凄いレアだよ」
 純白のウエディングドレスから覗く細い腕を曲げ、籠を提げた涼子は、その中から取り出した小さなクッキーの包みを女性――先程スピーチをしていたあの女性だ――に手渡しながら微笑んでいる。
「……そうなんだ。だけど私は……会えないよ。二次会には参加しない」
 女性は涼子の手からクッキーの包みを受け取り、儚げに笑む。何処か気乗りしない、遠慮がちな微笑みだった。
「どうして……? もしかしたら、この先会える事もないかもしれないんだよ? ねえ花、いつまで円谷と向き合う事から逃げ続けるの?」
 涼子は先程までの微笑から、険しい表情に変えていた。結婚式の招待客は、粗方散ってしまっているから、周辺には私と彼女達以外にはいない。だからこそ、涼子のその口調は何処か咎めるような強いものだった。
「……逃げるだなんて、そんな事……それに、今更会って何を言えばいいの? 私と円谷君は……そもそも住んでいる世界が違う。あの頃から、私と円谷君の間には、どうしようもない壁があったんだよ。私は絶対に、その壁を越えられない。円谷君がいる世界には、行く事は出来ないんだよ」
 はっとした。
詳しい事情は分からないけれど、まさかあの全身から自身を溢れさせている女性からそんな言葉が飛び出すとは思ってもみなかったのだ。――あなたは「向こう側」の人間ではなかったの?
「花? ねえ、もうじれったいから言っちゃっても良い? 円谷はね、高校の頃からずっと――」
「風巻さん、って」
 何かを言おうとした涼子の言葉を、遮るように割り込んだ声。それは、紛れもなく「向こう側」の女性のものだった。少しばかり視線を俯けた、その姿さえも様になる、その女性のものに間違いはなかった。
「え?」と涼子が戸惑ったように女性を見た。
「もう、風巻さんじゃないんだなあって。ふっと思ったの。涼子ちゃんはもう、別の名前になっちゃうんだね」
「何よ、突然」
「ううん」
 女性は顔を上げ、微笑を浮かべる。眩しそうに目を細め、涼子の顔を見ながら。
「涼子ちゃん。結婚、おめでとう。心配しなくても、私はちゃんと幸せになるから。だから私の事は気にしないで、今は自分の事を考えないと。ほら、二次会間に合わなくなっちゃうよ。旦那さんも待ってるし」
「え、あ、うん。そうだけど……」
 涼子は戸惑ったように女性の顔を見てから、向こうで友人達と談笑している様子の新郎の姿を見た。女性の事は気になるようで、しかし結局、躊躇しながらも新郎の元へと戻る事にしたらしい。
「とにかく……二次会、来られるんでしょ? 待ってるからね?」
 涼子はそれだけを言い残し、慌てて新郎の元へと戻って行ってしまった。後に残された女性は、ふっと小さく溜め息をついて、そしてくるりと踵を返して立ち去ろうとして――私と目が合った。
 近くで見ると、長身なのだと気付く。百六十センチはある私の身長よりも、幾分大きいようだ。突然に目が合ってしまった私は、ふいにある言葉を投げかけてしまいそうになった。――だけど、私は何も言わない。
そのうち、女性は柔らかな微笑を浮かべて私を見ながら、小さくお辞儀をした。そして颯爽とした足取りで、その場を去っていく。甘い香りを残して。

 あの女性にも、越えられない壁が存在しているという。それならば。もしかしたら、私はあの女性と同じ場所に立っているのではないだろうか。ずっと気付くことがなかっただけで。振り向くことをしなかったその道の後ろ側に、あの女性のような人が、私と同じようにひたすらに真っ直ぐ、その道を歩いていたのではないだろうか。
もしかしたら。私が歩いているこの場所は、誰かにとっての「向こう側」なのかもしれない。焦がれ続けてきた、辿り着きたい場所。ならば、私は願う。あの女性にとっての「向こう側」が、いつか辿り着ける場所でありますように。そしていつか、私自身も「向こう側」に行けますようにと。

「あなたも、私と同じ道を歩いてきたのですか?」