No-music.No-life

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遠くの君へ

 背筋をピンと伸ばしたその凛とした佇まい、その人の大きな瞳はただ一心にステージを見つめていた。
思わず目をそらしてしまう程に焦がれる存在に、惹かれる気持ちと反発しようとする葛藤がない交ぜになったかのような。その瞳には、何処か見ているものに不安定な陰りさせ感じさせる。
 今にも泣き出しそうな、けれども目が離せないのだろうその表情。
――私がその人の姿を見かけるのは、もうこれで何度目になるのだろう。

「城山さんは、バンドを辞めて後悔したなって思った事、ありますか?」
 収容人数が一万五千人クラスの会場内には、既に開演を待つ観客の姿で席の三分の二近くが埋め尽くされていた。
観客達のざわめきとスピーカーから流れている、私の知らない洋楽の歌。それらの全ては私にとっては違和感を覚えるばかりだ。会場内に入場してからもう三十分程経過しているにも関わらず、私にはどうにもこの空間に溶け込めそうにないと感じてしまう。
「……どうしたんだ? 急に。今更そんな事聞いてくるなんて」
 収容人数の割には球場の席にあるような椅子に座りながら、私は隣に座る彼に言った。
「だって。元々このバンドの初期メンバーだったじゃないですか。城山さんはバンドを脱退して、会社員として毎日頑張ってるけど……もしあのままバンドを続けていたら、今とは全く違う世界でスポットライトを浴びてたんですよ? 今ここから見える、あのステージでギターを弾いていたかもしれないんですよ? 悔しいとか、後悔したなって思った事はないのかなって思って……」
 思わず強気な口調になってしまったせいか、元々キツめに見える彼の切れ長の目がにわかに細められたのに気付いて、慌てて語尾を濁らせる。
しかし、予想に反して気分を害したという訳ではないらしい。ふいにその表情が緩んだかと思うと、彼は顔全体で笑った。
「同じ事言うのな。俺の元カノと」
 瞬間――会場のざわめきが聞こえなくなったような錯覚に陥る。しかしそれは、私の耳から一瞬の間、音が消え失せただけに過ぎなかった。
元カノという言葉に、私が過剰に反応しただけなのだ。
 私のその強張った表情に気付いたのだろう、彼は私の頭を軽く叩きながら言った。
「大丈夫だよ。あれから何年経ってると思ってるんだ? アイツと付き合ってたのは、大学一年の頃の事だし、今更どうにもならねえよ。それに、たまたまばったり会った時の話だし、俺にはお前がいるしな」
 その言葉に、私は頬を緩ませて笑ってしまう。
それでも、やっぱり自分の付き合っている人の過去の恋愛は、いつだって私の中に暗い影を落とす。しかも、その相手が自分よりはるかに美人だったなら尚更だ。 

 城山さんと出会ったのは、私が高校三年生、城山さんが大学二年生だった頃の事だ。
当時、彼は大学の音楽サークルでバンドを組んでいた。担当は、ギター。
その音楽サークルで先輩がバンドをやっているという話を聞き、私はそのライブに誘われたのだ。
先輩の他に、顔も良くギターも歌も天才的なボーカルと、力強いリズムを刻む体格の良いドラマー、ボーカル程ではないけれど、そこそこ整った顔立ちをしたベーシストのリーダーというメンバーの中でも、とりわけ冷たい印象を受けたのが、この城山さんに他ならなかった。
 彼の釣り上がり気味の切れ長の目、他のメンバーに比べてもほとんど口を開く事がないこの人は、しかしギターが格段に上手かった。
バンドや楽器の事などからきし素人の私ですらも、彼が本番前にチューニングもかねて鳴らしていたギターの音に、思わず聞き入ってしまった程だ。
ぼんやりとそのギターを弾いている人の姿を見つめていると、ふいにその人と目が合った。
酷くきつい印象を受ける、その目。
「来てくれたんだね! ありがとう。初めてのライブだから物凄く緊張するよー」
 ――ふいに、背後から肩を叩かれて慌ててその人から目をそらす。そして声の主の方を振り返ると、言葉の明るさとは裏腹に緊張した面持ちの先輩の姿があった。私と大して身長が変わらない先輩は小柄で、しかし私よりも格段に可愛らしい雰囲気を持った人だ。
私は見知った顔に安心して、笑顔で言葉を返す。
「……先輩! 頑張って下さいね! 楽しみにしてます」
 先輩の担当は、キーボード。高校の頃、合唱コンクールでピアノの伴奏を任されていた先輩を思い出す。きっと今回のライブだって、大丈夫だ。
「ありがとう! 頑張ってくる!」
 先輩は今にも泣き出しそうな顔をしながらも、しっかりとした足取りでステージへと向かっていく。

 先輩が準備の為にステージに行ってしまうと、途端に心細い気持ちになった。
私は音楽に興味がある訳ではなかったので、こういったライブハウスに来るのは初めての事だった。
 既に何組かのバンドが演奏を終えているらしく、楽器を抱えたバンドマンらしき人達が、煙草をふかしながら談笑している。
 会場内に充満する煙草の匂いと、話し声。不安になり、周囲を見渡すと、一人で来ているのは私くらいのようだった。皆、友達や仲間を伴って見に来ているようで、私だけがその場から浮いていた。
――と、その時だった。
 視界の隅にその姿を捉えた私は、その場でしばし固まってしまった。
固まったというより、見とれたという言葉の方が的確かもしれない。
そこには、長い手足をもてあますかのような長身に、背筋をピンと伸ばした姿をした女の人が立っていた。横には、こちらもこの人程ではないにしろ、綺麗な顔立ちをした友達らしき女の人がいる。二人はステージを見つめながら、談笑しているようだ。
遠目から見る限りでも、その長い栗色のストレートの髪と色白の肌、はっとする程大きな瞳は強い印象を与えて、現に会場内にいる観客達が、ちらちらとその人の様子を盗み観ているのが分かる。
 ――この世に、こんなに綺麗な人間が存在するのだと、私は無意識のうちに感嘆のため息をもらしていた。
 私がその人の姿から目が離せなくなっている間に、会場内の照明が落とされる。そして、ステージには眩しい程の照明の光。
 ようやく我に返った私は、その人から視線を外してステージに向き直った。

「円谷、お疲れ! かっこ良かったじゃん。いつの間に楽器が弾けるようになってたの?」
 ライブが終了し、スピーカーの大音量のせいか耳が少しおかしい気がする。未だに耳元に残る音と初めてのライブの余韻に浸っていた私は、しかしこれからどうしたものかとその場に突っ立ったままだった。しかし、耳にとある会話が飛び込んできてそちらを何となしに見てみた。
「まだまだだよ。俺が楽器始めたのなんて、大学入ってからだし。他の奴らは、ほとんど中学の頃からだし」
 円谷、と呼ばれたその人は、リーダーらしいベーシストの人だった。そこには、先程の綺麗な女の人と一緒にいた友達と親しげに話している。
 本人が言う通り、確かに素人の私からしても時々ベースのミスに気付いた位だ。とすると、メンバーの中ではあまり楽器が上手な方ではないことは、本人も自覚しているらしい。
「……でも、私は楽器が弾けないから……凄いと思ったよ」
 ああ、なんて綺麗な声だろう。
透き通るような、良く通るその声。その声の主を辿るように視線をさ迷わせると、あの綺麗な彼女のものだった。
 冗談でもなく、真剣な眼差しで彼女は円谷さんを見つめている。
その圧倒的な力強さに圧されたのか、それとも単に彼女の整った顔立ちに見とれたせいかは分からない。
 円谷さんは何度か目をしばたいてから、恥ずかしそうに目線を逸らして言った。
「……ありがとな」
 瞬間――彼女の頬に、微かに赤みが増したように見えたのは気のせいだったのだろうか。
隣にいる友達も、目線を逸らした円谷さんもその微かな表情の変化にはまるで気付いていないようだった。
「今日は来てくれて、ありがとうね!」
 突然ポンッと肩を叩かれて、勢い良く体をビクリとさせてしまった。その様子に、私も目の前に立つ先輩も驚いた表情をしたものだから、お互いに自然と笑顔になった。
「先輩、かっこ良かったです」
 私は素直にそう言って、笑んだ。
「そんな……何回もミスしちゃったし。やっぱり人前で演奏するのって、緊張するね」
 先輩はそう言って苦笑を浮かべていたけれど、実際の先輩の演奏は素晴らしかったと思う。
「そう言えば、先輩。見ました? 凄い綺麗な人がいたんですけど」
 私は笑んだまま、周囲を見渡して例の彼女の姿を探した。しかし、先程までいたはずのその姿は、既に会場内から消えていた。
「ああ、円谷の好きな人でしょう? 中学時代の同級生なんだって。凄く……綺麗な人だったね」
 先輩は、すっと目を細めて何処か遠くを見つめるかのように呟いた。その表情が、何処か寂しげに見えたのは気のせいだろうか。
しかし後に、先輩がバンドを辞める原因になったという好きな人が、円谷さんに他ならないと聞いた時、この時の先輩の表情を急に思い出したのだ――

「おい、そろそろ行くぞ」
 そのまま先輩と立ち話をしていると、怒ったような声をかけてきた人物がいた。
つり上がり気味の切れ長の目、少し怒ったように見えるその表情。長身で、すらりと長い手足を持ったその人からは、不思議と冷たい印象を受ける。その人は、先程ステージでしばし目があったギターの人に間違いがなかった。
「あっ城山さん! すいません。今行きます!」
 先輩は慌てた様子ですぐに荷物を取りに行ってしまった。
私は少し気まずい思いをしながら、その場で立ち尽くしているしかない。
 元々、こういう場所に来るのは初めてな上に、知り合いと言ったら先輩しかいないのだ。先輩が自分の傍から離れてしまうと、途端に心細さが募る。私は俯きながら、早く先輩がこっちに戻ってこないかと思っていた。
「アイツの知り合い?」
 俯けていた顔を反射的に上げると、身長があまり高くない私はその人を見上げるような格好になった。
「あ、はい。高校の時の先輩で。今日はライブに誘われたので、来ました」
 私がしどろもどろに答えると、彼は怒ったような表情を崩して笑顔になった。
「先輩ってことは、まだ高校生? 若いな……じゃあ受験生なんだな」
 高校生と大学生という違いこそあれ、年齢的にはたったの二つ差だ。けれども、高校生と大学生という境界線は、当時の私にとってはとても大きく感じられた。
「はい。先輩と同じ大学を受ける予定です」
 城山さんが笑顔になると、冷たい印象が急に消えて私は安心して答える事が出来た。
「そっか。じゃあ受かったら、俺らと同じサークルに来なよ」
 私は、はいと力強く頷いた。

(2へ続く)