例えば僕が死んだら
そっと忘れて欲しい
悲しいときは僕の好きな
菜の花畑で泣いてくれ
『たとえば僕が死んだら』という森田童子さんの歌があります。
今では頻繁には思わなくなった事。
だけど一度は見てみたい「死後の世界」
『例えば私が死んだら』
一体どうなるんだろう?
どれだけの人が悲しみ、どれだけの人が私の為に涙を流してくれるのだろうか?
それとも、沢山の人が密かにほくそ笑み、よくぞ死んでくれた、とガッツポーズさえされるかもしれない。
だけどそんなこと、自分が生きている限り知り得る事は出来ないものだ。
中学の頃、特に毎日のように「死」について考えていた時期がある、
それは丁度、社会にていじめによる一種の「自殺ブーム」のようなものが毎日のように全国各地で起こっており、嫌でもそのニュースは耳にしていたからだろうか。
特にいじめられていたという程のことはなかった。
だけど、毎日に何の意味も希望も、夢すら思い浮かばない時期が確かに存在した。
なら、生きている意味などないのではないか。
そう思っていたのである。
自分がどれだけ必要とされていたのか、どれほど人から愛されていたのか、悲しいかな・・生きている間には何一つ気付けやしなくて。
だからこそ、命を絶ってしまう人がいるのかもしれない。
「生きている意味などないともがきながら、だけど死ぬ勇気などない」
そんなことを一度、友達に言ったら
「死ぬことに勇気なんていらないんだ!死ぬ勇気なんて必要ない!」
と本気で怒られたことがあるのです。
私は、それ以来・・あまりそういう考えをしないようになりました。
そして大人になり、初めて身近で死というものに触れることになったのは・・・
会社の同期の子が、突然に亡くなった時だろうか?
若干まだ19歳。
まだまだ未来に可能性が広がって、人生これからという時期に。。。
どうして?何故?
今まで確かに存在していた人がいないという現実。
あまりにも現実味がなくて・・いつまでも冗談なのでは?と疑ってしまっていた。
そう、唐突にこちらの都合などお構いなしに・・・死というものはやってくる。
自分の友達にはいないけれど、何故か数少ない男友達や彼氏の友達に『自殺未遂』をした人、やら実際に『自殺』してしまったという人がいたらしい。
自殺とは言え、結局そうすることで、自分だけではない・・他の誰かも傷つける。
心配を掛け、迷惑もかけ、そしてその本人も死ねないとき。
助けを呼ぶのは本当は死にたくないからではないの?
誰かを求めて、だけど生きられやしなくて。
だからといって・・絶対に死んでは駄目だ。
人生、何とでもやり直しが出来るはず。
生きていれば・・・いつかきっといいことが起こるはず。
だから・・私は絶対に自分から命を落とすことはしない。
多分死ぬとしたら、事故(車)か病気だろうね。
今風邪引いているせいか。
こんな記事を書いてしまった。
早く風邪・・治らないかな。