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最下位女子高生⑪ 中学生編「忘れてはいけないこと」

私の23年間の中で、絶対に忘れてはいけない数ヶ月がある。

例え丁度その頃、家庭不和で誰にも言えずに悩んでいたのだとしても、受験の不安やストレスが溜まっていたとしても、こんなことをしてはいけなかった。


イジメ


それは、絶対にしてはいけないことだ。
世の中では、恐喝・暴力・「死ね」などという暴言、ノートや私物を破り落書きし、登校拒否に陥れる輩もいる。

私は確かにそんなことはしていないが、故意にその子を傷つけたことは確かだ。


無視・陰口


それでも、私自身にも理性というものは存在していたらしい。
こんなことをしたくないという心と、それでもやめることが出来ない葛藤の中、その子はしばしば学校を休みがちになった。

幸い、登校拒否などには至らぬまま私達は表面上友情を取り戻したのだ・・と思う。
それでも、その子にとってあの数ヶ月間はきっと苦痛と一生消えない傷を背負う長い数ヶ月となったことだろう。

高校生になり、それぞれが違う学校へ進むと、その子は、本当に気の合う友人を見つけることが出来たのだろう。
中学の頃より活気を取り戻し、最下位女子高生となった私に比べたらとても学校が楽しそうだった。
毎朝途中まで学校に通い、卒業しても未だに誕生日おめでとうメールのやりとりや、年賀状のやりとりがちゃんと続いている。

それでも・・私自身の後悔と、その子の傷はきっと一生消えないのだ。


今回は、そんな話。

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日記を読み返してみると、それは中学3年の9月頃から年が明ける頃まで続いていたようだ。

きっかけは、分からない。

ただ、日記にはこんな自分が嫌という葛藤と、Mさんがムカついてしまうという相反する言葉がつづられている。


私達は、8人のグループだった。

女子の3分の1が、男子とも喋るギャル系(当時そんな言葉はなかったが)グループ5人、クラスであまり好かれていない2人、登校拒否の子が1人と、私たち8人で合計16人の女子。


私と、親友であり今も交流しているA美、今回の話の重要人物M子。
私達は8人グループでありながら、3人でつるむことが多かった。

頭はいいが、ズバズバキツイ発言も多いE香、E香と仲が良く優しい双子であるMちゃん、明るくて面白いAちゃん、母が外国人でハーフのTっち、勉強も運動も出来て男女に人気のあるPさん。

8人もいるのだから、やはり仲の良い悪いというものも発生する。

私達3人、E香とMちゃん、TっちとPさん、という構図が多く、Aちゃんはまるで男子のように色々な所に顔を出して世渡り上手な分、今回の件に巻き込まれることなくある意味頭が良かったのではないかと思う。


私達のグループが少しずつおかしくなっていったのは、新学期の頃だ。

発端は分からない。

当時、受験のストレスで苛立っていたA美がM子を露骨に嫌がりだしたせいなのか、私にとっても毎日のように「M子が嫌だと思ってしまう」「見ているとムカついてしまう」と日記に書いてしまうような存在になっていた。

M子は何も悪くない。
普通に話してくれるし、何かをしたわけではない。

ただ・・未だに私は3人という構図がとても苦手なのには、このときの経験があるからなのかもしれないと思うのだが・・

私達は3人だった。

中2で仲の良くなった私達は、今までずっと順調に生活してきたはずだったのだ。

なのに・・少しずつ壊れていってしまった。


私は、何故かA美に異常に入れ込んでいる所があり(当時は何故か異常な程に)「すきま風を見てると苛々する」と言われたらしいことが日記に書かれていたのだが、その日一日絶望的な気分になったなどという当時の記録からして、A美の発言に一喜一憂していたことが伺える。

だからこそ、A美がM子を嫌いになりだした時も、諸に影響を受けただけなのかもしれない。

私達は、必然的にM子を避けだした。

そして陰口を言い合っていた。
時には二人だけの交換ノートにそんなことを綴りながら・・


M子のそんな様子に、何故か他の同じグループの子たちは気付かない。
というより、少し自己中な所のあるE香とA美がまず折り合いが合わなかったこと。

しばらくして、PさんがA美と折り合いが悪くなってきたこと・・

色々な要素が重なり、私たちは少しずつ分裂し始めていたのだ。


私は自分のことしか考えていなかった。


「いっそ、A美とだけ友達でいられればいい」


そんなことも思っていた。

しかし、A美は私がいつもA美の所にいることも気に入らなかったらしい。

意図的に私から離れてみたり、他の子の所に行ったり・・そんな行動をとられる度、私は絶望した気分になった。

いつしかこのグループにいることが苦痛になっていく。

それでも、M子に対する気持ちはどんどん嫌なものになっていく。

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年末が近づいてくると、M子は学校を休みがちになった。

その度に、私はM子に電話をかけていた(「自分のせいかもしれないと責任を感じ」てかけていたらしい・当時の日記より)。

まるでこれは、偽善者である。

自分がイジメの当事者でありながら、そんな自分に苛立ち、嫌悪感を抱き、やはり優しいそぶりを見せる。

最低ではないか。


それからしばらく、M子は学校を休みがちにはなっていたが、登校拒否には至らなかった。


いつしか私達は自然と元通りになったのだが、私は卒業式の前日にグループの皆に手紙を書いて渡した。

M子には、「あの時無視したりして、本当にごめん」という謝罪の手紙を書いたことだけは記憶に残っている。


卒業式の日。

M子が手紙を書いて渡してくれた。

その内容は、とても優しいものだった。
あの時は辛かったけど・・という言葉と、私を許してくれるというような内容の手紙。


・・あの時の、ほっとしたような、泣き出してしまいそうな気持ちは何と表したらいいのか分からない。

ただ、なんて私は馬鹿だったのだろうと思った。


あれだけゴタゴタしていた私達グループは、卒業する頃には仲直りしていた。
最後に沢山写真をとって、寄せ書きを書いて。

でも、高校・社会人・大学に進学すると同時にどんどん疎遠になっていって、結局未だにあっているのはA美だけなんですよね。

他の子は、たまにメールをするくらい。
あれだけの人数がいれば、気の合わない人もいるよねえ・・。

何であの頃はグループで固まりたがるんでしょうね?


グループの皆に絶望して、M子を嫌いになって、そんな自分に悩んで・・

私は子供だったのだろう。
だけど、確かに学んだことがある。


いじめられる子に、理由なんてない。


だから、いじめていいなんていうことは、絶対にないということだ。


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あれからもう8年、9年?は経っているが、忘れてはいけないことだと思う。

その償いではないが、これからも続く限りM子とは誕生日や年賀状のやりとりを続けていきたい。

だって、私達は友達なのだから。

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それにしても・・あの頃って、やっぱり受験のストレスですかね。

グループ内の誰かが苛立っているような日々で、グループ内交戦が勃発している毎日だったから・・

今はA美とは何でも言い合える仲だけど、あの時のA美はかなりストレス溜まっていたんだろうなあと思う。

ただそれだけ、私たちは若すぎたのかもしれないけれど。

そんな私達は、もう24歳なんですね(いや、まだ23歳ですけど!早生まれなんで!)


次の回で、中学生編を終了します。
最後は受験編で。