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最下位女子高生⑤中学生編 先生と私。

久々過ぎてすいません。

いつも長々としたレビューばかりなので、たまにはちょっと簡潔に、しかも本のレビューを書いてみようと思いたって(練習のため)再び底辺女子高生を読んだんですよ。

そしてふとこの書庫の存在を思い出した、と(笑)

たらたら中学生編とかやっているから、なかなか最下位女子高生話が出来ないのだよ!すきま風よ。

という訳で、もっと深く中1編とかやろうと思ったんですけど・・。
全体的に3年間を総称していくつかテーマ毎に書きます。
(じっくり書いたところでロクな中学時代は送っていない)

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学校という世界に於いて、生徒と共に先生の存在は必要不可欠である。
そして私にとって、この先生の存在が難関でもあった。

思い返してみれば、基本的に先生に好かれない人間だったように思う。

どうもこうも、小学校の時にはひいきをされる子とそうでない子がいて、私は絶対にひいきをされる事はなかったし、先生側からも扱いにくい子と思われている節があった。

私はあまりにも地味で無口であり、大人しすぎたからかもしれない。
とにかく、こちらとしても先生とあまり関わりを持たないようにしていた。

しかし、小学校の頃はまだいい。
中学に入ると、関わりを持たないという事が難しくなっていたのである。


中学1年の時は、生涯の学校生活の中で、これまでにないほど先生に嫌われた1年であった(そして先輩にも嫌われた)。
唯一の救いは、同じクラスの人達が善人揃いだったことくらいである。


一つ目の事件は、国語の時間に起こった。
今思い出しても、無償に腹が立つ程理不尽な扱いを受けた出来事である。

その時国語を担当していたO先生は、妙に発音が悪い無駄に巨乳の中年女だったのだが、黒板に書く文字が、一番左に来た時点で妙に字の先頭が斜めに下がっているという特徴的?な書き方をする先生であった。
それはまるで、昔は少なかったものが近年増えてきたというような棒グラフを見ているようだった。

そしてそのO先生は、男と女の接し方が明らかに違っていた。
女の先生にありがちな、単なる男好きだったのかもしれない。

だからこそ、私は以前からあまり好きではなかったのだけれど。

とある時。
後ろの席のTちゃんと授業中のちょっとした時間に何かを喋っていた私は、その席から少し近い席の男子にO先生が笑顔で喋っているのを見て、こう言ったのだった。

「男好きは、Oじゃんね」

多分、そんな台詞だったと思う。
詳しくは覚えていないが、O先生の方がよっぽど男好きだよね、というような事を言ったのだと思う。

するとTちゃんは、「え?何?」と聞き返してきた。
それなので、私は同じ事を言った。

しかし、Tちゃんはまた聞き返してきた。
上手く伝わらないらしい。
もう一度言おうとすると・・

「すきま風さん。先生には聞こえてますよ」

その瞬間の、Oの怒りを抑えたような顔がその後の国語の時間が魔の時間に変わる事を物語っていたのかもしれない。


それからというもの、授業中に手紙を書いて回そうとしていたら目ざとく見つけられ、クラスの皆の前で(全文じゃないにしろ)読み上げられたり、また理不尽に「すきま風さんだけ挨拶をちゃんとしていなかったので、もう一度挨拶してください」とクラスでたった一人、二回も挨拶をさせられたりした。

そして、極めつけは三学期の通信簿である。


これは中学1年の成績といえど、唯一内申に影響される大事な評価である。

大嫌いな数学や体育などは別として得意な国語でそうそう悪い成績など取る訳などない、と高をくくっていたのがそもそもの間違いであった。

何と、そこに書かれていたのはという数字。

一瞬、頭を強く殴られたかのような衝撃を受けた。
慌てて頭を働かせ、記憶を辿ってみる。

どう考えてもおかしい。
明らかにテストでは80点以上を取っていたはずだし、ノートを取るのは基本的に好きなのでちゃんと出していたし、真面目にやっていたではないか!

いや、待てよ・・?
当時の成績制度は、5の評価ははクラスで何人と決まっていた・・(今は改正されたんですよね?)。
そしてひらめいた。

あいつ・・私をわざと3にしやがったな?!

と、今思うとこういう汚い言葉になるのだが、当時私はそこまでひねくれてはいなかった。
だからこそ、反論することも出来ずただ呆然としたのを覚えている。


その後、翌年の2年生までO先生は学校にいたが幸い国語の担当教師が変わった上、今まで教わってきたどの国語の先生よりも一番にいい先生が担当することになったので私はまた「5」の評価をもらえることに成功したのであった。

だからこそ、あの「3」は陰謀としか思えない。


もう一つ目は、美術の時間だった。

私は、絵を描くのも何かを作るのも基本的に不器用で才能がないので、得意ではない。
つまり粘土で何かを作ることや、電動のこぎりを使って木を切断し、何かの形にすることなども大変苦手である。

しかし中学1年の時は、よりによってそういう課題ばかりであった。


とある時だった。
自分の手を、粘土で作るという課題をしていた時のことだ。

まず、針金で土台を作り水で固めながら粘土をつけていき手の形を作っていく・・という単純な作業だったのだが、どうしても私には才能がなかったらしい。

黙々と粘土をつけていると、担当のY先生(気の強そうな30位の女の先生だった)が私の傍に来てこういったのだった。

「これが手に見えるの!?」


酷い。あり得ない。
明らかに私にだけ言っていた。

多分自分と同レベル、またはそれ以下の人もクラスにはいたはずだ。
それなのに私にだけそんな暴言を吐いたY先生。

私は悔しさと悲しさで泣きそうになりながらも、黙々と粘土をいじった。
完成したものの記憶が薄いのは、嫌な記憶だからだろうか?


ある時は、板を四角に切断しコップの下に敷くコースターを作るという課題をこなしていた時だった。

技術の授業課題のように、自分の手でのこぎりを動かして切る訳ではない(それも大の苦手だ。私が切ると斜めに切れる)。
細かく綺麗に切ることが出来る電動のこぎりを用いての課題だった。

しかし、私は「自称・機械壊し魔」である。

小学校の時はミシンのボビンに糸を絡ませてめちゃめちゃにしたり、高校でもミシン針を破損させ、今でも会社のパソコンやプリンタが何故か私の手にかかると不自然に壊れたりするのである。

だからこそ、相性が合わないのは当然だった。

何故か私が使用した途端に、不自然に湾曲を繰り返す電動のこぎりの針。
それはこのまま続ければ、折れかねない程の湾曲を見せていた。

私は危険を悟り、思わずその場に立ち尽くした。
すると、素晴らしいタイミングでY先生がやってきた。

そして開口一番こういったのである。

「何してるの?!」

その口調は、もはや半ギレだった。
まだ壊す前ですよ?
というか、助ける気ゼロ?みたいな。

Y先生は私を疎ましい者でも見るかのような目線で見据え、近くにいたクラスメイトの男子に「ちょっと見てあげて」と呆れた口調で言ったのである。

しかもその男子は、近所に住む幼馴染の男子だった。
年齢と共に疎遠になっていた事もあり、気まずさマックス!

多分何とかして針を直してくれたような気がするのだが、あまり記憶にないのは上に同じ理由である。

このY先生は、一番最初の授業の時点で印象が悪かった。
すきま風「君」と、(当時中三だった兄もY先生に教わっていたせいであろう)呼んだのである。
しかもしばらく間違って呼び続けていたという・・

しかし最悪な状況の中、2年になる頃には人事異動で別の場所へと旅立っていた時のあの喜びは言い表すことは出来ない。


この二つ以外にも、色々なことがあった。
赤点も取っていなかったのに、ケアレスミスをしたという理由でげんこつをくらったり、ちゃんと掃除をしていたつもりだったのに「綿埃がある」という変な理由で首根っこを掴まれてひっぱられたり、妹の担任で副顧問だった先生に苗字を覚えてもらえなかったり・・

まあ、中3の時に反抗期で苛立っていて、壁を蹴飛ばした瞬間を目撃された時は焦ったけどね。
しかも大分冷静に「まっすぐ歩きましょうね」と言われた時は、本当に申し訳なかったけれど。


それにしても、先生から理不尽な扱いを受け続けて私の反抗期は中2の時にやってきて、今まで抑えていた感情が爆発・・したかどうかは別として。

あの1年生の時みたいに、「何で私だけ?」と思いながら一人で悩むなんて事はなくなった。
多分思いっきり愚痴を友人に言ったりしていた気がするのだ。

今思い出しても思う。

やっぱり、先生は苦手だ。